鐘楼(しょうろう)流し (15) 










「ここいやだ!もどろう、お父さん!」




何故?





「いやだ!わたし行かないよ!」






一緒に・・・






「戻ろうよ、お父さん!!」





一緒に来てくれると、言ったのに






「なんだあ? こわがりだな千尋は」






私ひとりで逝かせるのは可哀想だと





「やだ、帰ろうよ!」





鐘楼船を抱きしめて泣いてくれたではないか






「千尋は車の中で待ってなさい」






二艘の船を髪飾りで結わえて、「また会おうね」と








「おかあさん!」






あれは、嘘だったと?





「おいで、平気だよ」










「 お い で 、 平 気 だ よ 」













* * * * * * * 







季節の移ろいのあいまいなこの不思議の町にも、一応ひととおりの春夏秋冬は訪れる。
月の美しい仲秋のころあいを過ぎ、湯屋にも雨がちな日が続いていた。

地にくすぶっていた灼夏の余熱も、夜ごとふる雨に吸い上げられ、少しずつ空に還ってゆく。

そして、雨に洗われた朝は日に日にしっとりとした冷気をまとうようになり、湯屋のものものも、布団を1枚ふやしたり、肌着を厚手のものに変えたりし始めるのだ。






「で? はっきりしたことはわかったのかい?」



湯屋の最上階で執務を取る女経営者の青いドレスもシルクサテンからベルベットに変わった。

もう少し冷え込むようになったら、襟元にオーストリッチのファーをあしらったのにしないと、などと思いながらもせわしなく書類に目を走らせ判を押し、そして、呼びつけた帳場頭に顔も上げず質問する魔女。


この時期湯屋は結構忙しい。
『向こう』の世界にも徐々に紅葉冷えが広がり、どの神も熱い湯が恋しくなるころなのだ。



「いえ。板長にも命じて目下調査中ですので、もう少々お待ちください」



最近食材の在庫が時々不自然な減り方をする。
それに気付いたハクは、現在、通常業務のかたわら、その事実確認と原因調査を行っていた。



「まさかあの牛蛙、どこぞに横流しでもしてるんじゃないだろね?」



書類にサインする手は止めずに、つけまつ毛の片端だけをじろりと上げた湯婆婆に、ハクはきっぱり首を振る。



「それはありません」



言動は粗雑だが、仕事には誇りを持っているあの職人かたぎな板長にその可能性はないと思う。
だからこそ、彼に調査の協力を依頼しているのだ。



「確かだね?」

「はい」



ふん、と鼻を鳴らした魔女は、さらにひととおりの業務報告を受けた後、話題を変えた。





「ところであんた、わかってるとは思うけど」

「何をでしょう」

「もうすぐまた、冬が来るんだよ」






かすかに変化した龍の青年の顔色をあえて無視して、湯婆婆は続ける。





「食材管理はあんたに任せてるんだから細かいこと言うつもりはないけどさ」

「はい」

「いくらなんでも長すぎるんじゃないかい?」

「・・・・・・・」

「次の冬は越せないと思うけどね---------センの親は」





龍の青年は唇を噛んでうつむいた。




本来ここは人間の生きられる場所ではない。


千尋の両親ほど長期間この世界に生きてとどまった豚は今までいない。
・・・・今まで生きながらえてきた事のほうが、むしろ例外的なのだ。

むろんそれは、千尋やハクがさまざまに手を尽くしているからであるが、平均寿命はとうに越えている。

神への食材として屠殺されなくても、病気や老衰でいつ命を落としても不思議ではないはずだ。
事実、一時小康状態を保っていた彼らの病状は、再び悪化の様相を見せている。





「いいかい、あんたが自分でカタをつけるんだよ」

「はい」

「あたしゃ面倒見ないからね。そもそもあいつらがここに迷い込んだのは----------」

「わかっています」



ハクは魔女の言葉を遮って一礼した。

そのまま執務室を後にしようした彼に、湯婆婆はいたって事務的にもう一言付け加える。







「長すぎるのは『親』だけじゃないからね」







龍の青年は一瞬ぴくりと全身の皮膚をあわ立たせたが。

そのまま黙って退出した。






* * * * * * * * * *






「セン? 貧血か?」



掃除だらいを抱えあげようとして立ちくらみを起こした千尋に、リンが駆け寄った。



「だ、大丈夫。なんともないから」

「なんともないってお前、そんな顔色で」



覗き込む姉貴分の狐娘に、千尋は無理に笑ってみせる。



「ちょっと疲れただけ」

「・・・・おふくろさんたちの看病で寝てないんだろ。無理するな」

「平気。休むほどじゃないって」



休むわけにはいかないのだ。
湯屋に有給休暇などない。休みを取れば、その分給料から差し引かれる。


両親の病状がこのところ思わしくない。
先月の休みにハクと集めてきた薬草はとっくに使い切ってしまった。

やむなく釜爺に頼んでまた薬を用意してもらっているが、その代金は、すでに今月の給金すべてをつぎこまなければならない額になっているはずだ。

もう一日も休めない。



千尋は額の脂汗を袖口でぬぐって、ゆっくり立ち上がる。
とたん、またすぅっと血の気が足元に落ちてゆく感覚と吐き気に襲われるが、息を止めてやりすごし、なんとか持ちこたえる。



その姿を見て、リンはやはり不安になる。



最近妹分は少し痩せた。
だが、腹部や下半身は逆にむくんでいるようにも見えるのだ。
食事もあまり進まず、時々吐いているのを見かける。

そして・・・寝食をともにしている女同士だからこそ気付くことなのだが、彼女は先月、月のものがなかったように思う。





「あのな、セン。まさかとは思うけど」

「なあに?」

「・・・・いや、いい。やめとく」

「??」




やだなぁ何よ?と、笑いながら千尋はたらいを抱えなおし、汚れ水を捨てに行く。

少し迷って、リンはその細い後姿をもう一度呼び止めた。



「なあ、セン」

「なに?」



立ち止まってにっこりと振り向く千尋に、リンはらしくもなくもごもごと、口に綿でも含んでいるかのような口調で言う。



「その・・・なんだ、・・・なんていうか、どっか体悪いんだったら、・・・・ちゃんとハクに言うんだぞ?」

「え?」

「オレでもいいから」



首を傾げつつも、ありがとう、と礼を言って立ち去る妹分をリンは複雑な思いで見送った。








* * * * * * * * * *









店がひけたあとの残り湯。


毎夜それをこっそり汲み置いて、湯殿掃除の後に畜舎に運ぶ小湯女がいる。

湯が冷めぬよう、木桶を二重重ねにし、そこにさらに厚木造りの蓋を載せて、湯殿の裏口から花廻廊を抜けて菜園の一番奥にある家畜舎へ。

重労働には慣れているとはいえ、この重さと距離は女の細腕にはかなりこたえる。

湯を満たした桶を結わえた天秤棒が、細い肩に食い込むのをこらえ、千尋は両親のもとへ向かった。



畜舎に近づくにつれ、そこから漏れ出る豚のうめき声がはっきりと聞き取れるようになってくる。

千尋は歯を食いしばって道を急いだ。




畜舎の中に入ると、案の定、二頭の豚が口から泡を吹いて暴れ苦しんでおり、他の豚たちは彼らを遠巻きにして怯えていた。




「あ、、ああ、遅くなってごめんね、今お薬あげるからね、、、」



千尋はボイラー室でもらってきた丸薬を、餃子の皮のようなものでくるみ、涎まみれになった明夫と悠子の口の中に押し込む。


釜爺は千尋から明夫たちの症状を聞き、最近処方する薬を変えた。
それがたいそう苦いらしく、飲ませるのに四苦八苦する千尋を見かねて、板長蛙が残り物の黒砂糖や、古くなった水飴などを練りこんだ甘皮を作ってくれた。


その甘皮で薬を包めばとりあえずは嫌がらずに飲んでくれるのだが、彼らの病状はなかなか快方に向かわない。

食欲は落ちているのに、ぶくぶくと体はむくみ、腹部の腫瘍はだんだん大きく、硬くなっていった。
患部の痛みのためか日に日に気が荒くなり、夜になると苦しんで激しく暴れる。





「お父さん、お母さん、今薬湯で体拭いてあげるからね、そうしたら気持ちよくなって眠れるからね、」


湯殿から持ち出してきた湯で絞った布で体をこすってやるといくぶん落ち着くので、千尋は毎晩彼らが眠りにつくまで、ともすれば夜明け方までこうしてつきっきりで世話をしてやるのだった。

できることなら、効能の高い薬湯でゆっくり温浴させてやりたい。
でも、もちろんそれは無理な話だ。

ハクにすら、さすがにそこまでは頼めなかった。



だが、今夜の苦しみ方は特に酷い。

明夫は獣そのものの叫び声をあげて所構わず突進し、あちこちに体をぶつけ、あざだらけになりながらのたうちまわっているし、悠子は白目を剥いてぴくぴくと体を震わせ、嘔吐を繰り返している。


悠子の口元の吐瀉物を拭き清めてやろうと、千尋が湯桶にかがみこんだところに、明夫が体当たりしてきた。




「きゃあっ!」



千尋は湯桶ごと突き倒され、せっかく汲み運んできた薬湯は敷き藁の上に全部こぼれてしまった。



「あ・・・・ああ・・・・・、待っててね、もう一度残り湯を探してくるから」



自身もずぶぬれになりながらもけなげに立ち上がった千尋の目の前に、ふらりと立ちふさがった者がいた。




「よお。大変そうだな」



ぞろりと上背の高い、というよりも、首が長い---------板場の新入りの蜥蜴(とかげ)。
中途半端に着崩した水干の上着のすそから、新しく生えかけている尻尾がぷらりとのぞいている。



千尋はとっさに天秤棒を握り締め、ざっと身構えた。





「警戒するなって。何もしやしねぇよ」



蜥蜴男は咥え煙草に懐手といった横着な格好のまま、へらへらと娘に近づいてくる。



「崩れ龍なんぞ相手に張り合ってちゃあ、命いくつあっても足りねぇからな」


言いながら蜥蜴は悠子に近寄りかけ、嘔吐物で汚れたその姿にあわてて口元を押さえ後ずさる。


「ああ、酷いなこりゃ」




そして彼は、薬湯がこぼれてできた水溜りに煙草をぽいと捨て、こちらをじりじり睨みつけている人間の娘に向き直る。




「そう怖い顔するなってば。せっかく機嫌取りに来てやったってのによ」

「機嫌・・・?」

「そ。いいものやるからさ。『ハク様』にはよしなにとりなしといてくれや。まあったくあれからどうも目ぇつけられてやりにくいったら・・・」



言いながら男は、懐から何やら取り出した。




「あ・・、それ・・・・?」

男が差し出したものに、千尋は見覚えがあった。




「痛み止め。親に食わせてやりな」



そう言われて、千尋は思い出した。
以前、ハクと一緒に薬草を摘みに行ったとき、今蜥蜴が手にしているのと同じものを彼が懐に忍ばせて持ち帰っていたのを、見た。




「でも・・・・それ、すごく強い薬なんでしょう?」

確かそう言って、ハクはそれを自分には分けてくれなかった。



「よく効くぜ?」

「・・・・でもその薬草、できるなら使わない方がいいって、ハク・・さまが言ってた」

「そんな悠長な事言ってる場合じゃないと思--------おおっと」



話すそばから明夫がもんどりうって転がってきたのを、蜥蜴はひょいとかわす。
明夫は勢いそのまま木柵に激突し、まぶたの上を切って出血し倒れた。



「お父さん!」


思わず駆け寄った千尋に、オオトは再び薬草を差し出した。
それは蕨(わらび)に良く似た形をしていて、いくつかに枝分かれした穂先がそれぞれくるりと巻いている。



「それに、これ食ったら絶対に料理に使われる心配ないしな」

「えっ?」





千尋は顔を上げた。



「ほ、本当に・・・?」

「つうか、これ食ったらもう料理には使えねぇんだと。前に板長が言ってたぜ」

「い、板長さんが・・・・?」




迷う千尋のすぐ後ろで、悠子がまたげぶりと胃の中の物を吐いた。
あわてて背をさする千尋の前で雌豚は吐けるだけの物を吐ききってしまうと、その場に目を剥いて倒れこみ、喉でひゅうひゅういやな音を立て今にも消えそうな呼吸を繰り返す。



「お母さん・・・しっかりして、お母さん・・!!」



千尋はオオトの手から薬草をひったくるようにして奪うと、そのくるりとした穂先をひとかけむしって無理やり悠子の口中に押し込んだ。

驚いた悠子は甲高い悲鳴を上げたが、それは一瞬のことで、すぐにおとなしくなる。

そしてとろんとした目でぼんやりあたりを眺めながら、その薬草をガムのようにくちゃくちゃと噛み始めた。





「な。即効だろ」



蜥蜴男の声を幻のように聞きながら、千尋は夢遊病者のようなしぐさでふらふらと明夫にもその薬草を与えた。




二頭の病んだ豚たちはほどなく眠りにつき、豚舎は静けさを取り戻す。






「じゃ、これでこの前の件はチャラにしろよな?」

「・・・・・・・」

「もうシッポ切れるような目に会うのはゴメンだぜ」





生気を抜かれたように座り込んでしまった千尋の肩をぽんと叩き、蜥蜴男は立ち去った。















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