鐘楼(しょうろう)流し (17) 








ウサメの案内で駆けつけると、千尋は従業員たちが使う洗面用の流し場で、リンと数人の女たちに背を支えられ、下腹部をかばうように身をまるめた姿勢でうずくまっていた。



血相を変えて飛び込んできた龍の青年の姿に気付き、少女は顔を上げる。




「あ・・・ハク、・・・さま、どうして・・」



当の少女以上に青ざめた青年は、奪い取るように女たちの中から愛しい娘を抱き取った。



「どうした? どこが苦しい? 腹か? いつからだ? 痛みは? 吐き気があるのか?」



矢継ぎ早に質問を浴びせられ、目を白黒させている千尋を、ハクは人目も憚らず抱き締めた。




が、その彼の襟首を後ろからぐいとばかりに掴んで振り向かせた女がいた。
そしていきなり、ぱしん、と派手な音とともに、彼の頬が思いっきり張られ。



「な・・・何をする!」

「何をする、じゃねぇだろ?! 嫁入り前の娘こんな身体にして、どう責任取る気だ?!」



公衆の面前で鬼の帳場頭に平手打ちを食らわせたのは、------少女の姉貴分の狐娘、リン。



「・・・・・どういう意味だ」

「しらばっくれんのかよ!? センの腹の中の赤ン坊、お前以外誰の子だってんだ!」







龍の青年のととのった顔面からつぅっと血の気が引いた。







     オ 








「え? え? リンさん、何言って・・・・??」









 
        オ










「お前は黙ってろ! こういうことはな、きっちりケジメつけなきゃ泣きを見るのは女のほうなんだからな!?」











           ト









龍の青年の周囲の空気がめりめりと音を立てて揺れた。









 
                ・・?!










取り巻く湯女たちの間からひいぃ、と悲鳴が上がる。









おのれ












きちんとひと括りにまとめられていた青年の緑がかった黒髪がざわと崩れ、空中にあおられて蛇のようなうねりを巻く。


美しい青年の形をとっていた顔面は、陶器のようにつるりと固まり、そこへ無数の亀裂が走ったかと思うと、ばしばし音を立ててはしから鈍い光を放つ鱗に変わった。


袖の下からのぞく腕の皮膚も白い龍鱗にざりざりと覆われてゆき、ぶるぶる震える指先は大きく湾曲した鋭い鉤爪に変形してゆく。









お の れ








人なのか獣なのか見分けのつかぬ化け物のようなさまのまま、ぐい、と上背が天井に届くほどまでの高さに伸び上がり、その異形の生き物は龍へと変化(へんげ)した。


真っ赤な口が耳元まで裂け、その中に並んだ牙がぞろりと光る。







あの蜥蜴・・・・っ!!








怒りのあまり温度を失い、氷点下まで凍りついた翡翠色の瞳が獲物を求めて爛々と見開かれ。


視界の下で人間の少女が何事か懸命に叫んでいたが、もはや何も耳に入らなかった。



階下に男たちの大部屋がある。
そこに、くだんの蜥蜴男も休んでいる。



龍はしゅうしゅうと荒息を立て、頭からいきなり従業員部屋の床に突っ込んだ。

がりがりがりっ、とけたたましい破壊音がして床が抜けた。






* * * * * * * * * *







「ひ、ひぇえええええっっ????」

「な、何事じゃ〜〜〜〜っっ!?!?!?」




突然部屋全体を揺るがす地震のような衝撃が男部屋を襲い、ついで天井がぶち破られ、そこから現れた白龍の怒りに満ちた姿に、室内の男たちは上へ下への大騒ぎになった。




「わわわっ、ハ、ハク様・・・っ?!?!?!」

「いいいいいいったい、どうなされましたっっ!?!?!」




逃げ惑う男たちの中に蜥蜴(とかげ)男の姿を見定め、白龍は牙を剥いて彼に襲いかかる。



自分が標的だと知ったオオトは弾かれたように部屋を飛び出した。



「うわっ、ちょ、ちょっと待って下さいっ、は、話せば、わ、わか・・・っっ!」



叫びながら部屋を逃げ出した蜥蜴の背に、龍はいきなり食らいつく。
その牙に肩口を割かれ、悲鳴を上げて階段を転げ落ちる蜥蜴。

飛び散る鮮血の中、せっかく生えかけていた小さな尻尾がぷつっと切れて、階段に転がる。

ぴよぴよと蠢(うごめ)く路上のミミズのようなそれを蹴散らし、白龍はうなり声をあげながら男の後を追う。


追うものと追われるものが通過した後は壁といわず柱といわずずたずたに破壊され、その姿は、かつて湯屋で大暴れしたカオナシを彷彿とさせ、従業員たちは震え上がった。







龍に容赦なく追いつめられた蜥蜴が最後に逃げ込んだのは最下階の調理場。


血の噴き出る肩を押さえ、調理台の下の収納庫に逃げ込んだところを、一息遅れで飛び込んできた龍が台ごと噛み砕いた。



「ひ、ひぃぃいいいいっっっ!!!!」


台下に吊るして収納されていた包丁だのおろし金だのが粉々になって飛び散り、刃物の破片がぱらぱら降り落ちる中、オオトは傷だらけになりながら流し台の下へ飛び込む。

が、それを見越した龍の尾がそこへ一撃を加え、水場は一瞬にして崩壊した。

破裂した水道から水が噴き出し、足をすべらせたオオトの身体を、白龍の牙がぐしりと捕らえ。



血まみれの蜥蜴がそのまま一息に食いつぶされんとしたとき。


彼らの背後で、ぶしゅ、と鈍い音がして、新たな血のにおいが調理場になだれこんだ。





蜥蜴を牙の中に咥えたままの龍が振り向くと、そこには出刃包丁を自らの腹にずぶりとつきたてた板長蛙の姿があった。



「ハク様、申し訳ない。部下の不始末の責任はわしが取らしてもらいますよって」



あとから追いかけてきた男たちがわらわらと彼に取り付いて、そのまま腹を掻っ切ろうとする牛蛙を必死で止める。



そして、遅れて駆けつけてきた女たちの中に、リンに背負われた千尋がいた。
調理場内の惨状を見た千尋はリンの背から飛び降り、刃物の破片が散乱するそこへ素足のまま駆け込んだ。



「ちがうの! 誤解だから! わたし、なんともないから!!」



足が傷つくのも構わず駆け寄ってくる少女に、ハクははたと我に返り、あわてて龍身を解いて彼女を抱き取る。


放り出された蜥蜴男はひいひいとうめきながら、さらに裏口へと逃げようとしたところで力尽き、気絶した。



同時に、龍の青年の腕の中で千尋も意識を失った。







* * * * * * * * * *










ぼんやりと回復してきた意識の向こうで、誰かの話し声がする。

それが、自分をいつも護ってくれている龍の青年と、姉とも慕う娘の声だと気付いて千尋はうっすらと目を開けた。




「あ・・・セン。気がついたか?」


声のするほうに目を向けると、そこにはばつ悪げに座っているリンがいた。


「ごめん、ほんっと悪かった。その、、、俺てっきり・・・・」



気にしないで、という意味をこめて千尋は微笑する。



「いやリン、そなたのおかげで瓢箪から駒というか、・・・ひとつ厄介ごとが片付いたのだから。私の方こそ、早とちりをしてしまってすまなかった」


リンは妹分の無事を確認すると、ハクとふたことみこと会話をしてから、部屋を出て行った。

リンと話すハクの声は、いつもどおりの穏やかなものであったが。
その響きの中に、かすかにまだ、何かくすぶるものが熾火(おきび)のように燃え残っているのを敏感に感じ取り、千尋は不安になる。

ハクが落ち着きを取り戻しているところから察して、どうやら自分についての誤解は解けたようだが、あの場で傷ついていた者たちがどうなったのかが気になって、千尋は恐る恐る聞いてみた。




「あの・・・厄介ごと、って・・・?」

「うん? ああ、そなたが気にすることではないよ」

「でも・・・・」





少女があまりにも心配そうに声を震わせるので、ハクは簡単に先ほどの件の顛末を聞かせてやった。





あの後意識を取り戻したオオトは、すべてを白状した。
彼は、湯屋の食材をさる筋にこっそり流して小金を稼いでいたのだった。

とりわけ、豚はよい稼ぎになる。
豚の処分の指示が出ると、その番号や頭数をうまくごまかしては、私腹を肥やしていたという。

今は湯婆婆が湯屋を留守にしている時間帯であるので処分は保留となっているが、おそらくあの傷だらけの身体のまま即刻ここを追い出されることになるであろう。

まったく、ひょんな所から調査中の案件が片付いた。



一方板長は、オオトの所業にずっと疑念を抱いていたという。

決定的な証拠がないため、動くに動けない状態でいたところ、あのハクの激昂した姿を見て、てっきりその怒りの原因が、食材横流しの件であると勘違いし、自分の監督不行き届きを恥じてあのような行動に出たのだと話した。

彼についても、湯婆婆へ報告しなければならないが、おそらく咎めはないだろう。

幸い傷も浅く、命に別状はない。
数日休めば板場に戻れるであろう。





そのあたりの話を聞いて千尋は少しほっとする。



いまだ朦朧とする視界の中で目をこらすと、窓にむかって傾(かし)いだ天井が見えた。

目線を横に落とすと、そこには塗り壁に作りつけられた押入れと簡素な文机があった。





    --------ええと。ここは。





押入れの襖(ふすま)紙は古びてあちこち傷んでいたが、破れたところにはきちんと目張りして修理がされており、この部屋に住まう者の几帳面さがうかがえ・・・・千尋ははっとした。




「あの、わたし・・・・どうしてここに?」

「うん?」

「ここ、ハクの部屋でしょう?」




ああ、と少し笑い、彼はあっさり白状する。



「心配でたまらないから、連れてきてしまった」

「・・・・・」

「嫌だったかな?」

「そんなこと、・・・ないけど・・・・」





無邪気な子供であったころとは違う。

彼の自分への気持ち、そして彼がそれを抑えてくれていることには気づいている。

だから、けじめとして、この部屋でふたりきりになるようなことはしてはいけないと自分で決めてきた。



もちろん、枕元で静かに座っている青年にこの場でどうこうされるとかいうような疑いは露ほどにも抱いていない。


が、決して広くはないこの室内、自分が寝かされているだけの空間を一人で占領してしまうと、部屋にはゆとりなどほとんどない。



「わたしがおふとん取ってしまったら、ハク、ゆっくり横にもなれないでしょう?」




申し訳なさげに眉を寄せる少女に、青年は微笑する。



「騒動を起こして悪かった。身体にさわったろう?」

「大丈夫」

「見苦しいところを見せてしまったね」




病人を気遣い、抑えた声でとつとつと話す青年の端正な面立ちを見ていると、さきほど烈火のごとく怒り狂っていた龍と同一人物とはとても思えない。



「私は皆が思っているより、実は短気でね。嫌われたかな?」

「そんな・・・」

「怖かった?」

「ううん」

「そう。安心した」



そう語るハクの声はとても優しいものであったけれど。
やはり、やりきれない何かを無理やり押し殺しているように感じられて、千尋は落ち着かなかった。





    --------ハク、何か心配事でもあるのかな。





自分に関係のあることだろうか。

それを尋ねていいものだろうか。






迷っていると、ハクのほうから声がかけられた。


「あのね、千尋。ちょっと思ったのだけど」

「なに?」





微妙な間合いの沈黙のあと、彼はとんでもないことを口にした。







「いっそ、ほんとに私の子を宿している、ということにしてはどうだろう」











    --------・・・え・・・・っ?










「そのほうがかえっていいのではないかと、さっきリンとも話していてね」











    --------・・・え・・・・ええと・・・・・・?













「・・・・ハク、あの・・・わたし・・・」












唐突に思いがけない話を切り出され、あからさまに困惑を顔に出した少女に、ハクはあわてて付け加える。




「あ! いや、その、言い方が悪かった。騒ぎにつけこんで既成事実を作ってしまおうなどとけしからぬことを考えているのではないよ」

「・・・・・・・・・」

「その、、、具合が悪いのは悪阻(つわり)のせいだ、ということにしておいたほうがいろいろと都合がいいかもしれないと思って」

「?」





話が飲み込めずに怪訝な顔をしている千尋に、ハクは仕方なく説明する。





「実はね。そなたがたちの悪い病ではないかと疑っている湯女が少なからずいてね」

「・・・・・」

「つまりその・・・変な病気をうつされたらたまらないと」

「ただの貧血なのに」

「うん、、」




歯切れの悪いハクの口調に、千尋は、さきほどからなんとなく感じる彼の感情の不安定な揺らぎは、やはり自分の体調に関係するのかもしれないと漠然と思った。





「みんなが、わたしと一緒の部屋に寝起きするのは嫌だって?」

「そこまでは言わないけれど。私の子を身篭っているから体調が悪い、ということにすれば、少なくとも気味悪がったり意地悪をしたりするような者はいないだろうと思うから」




言いながら、ハクはどこまでを言葉にしようかと迷った。

彼女の言うように、単なる貧血であるならいい。



だが。








もしも、自分が一番心配していることが原因であったなら?











むろん、他人に伝染することはないが、万一、状態が悪化して寝込むなどということになった場合・・・おそらく、病人用の別室に移さざるを得ないだろう。


湯屋には病気になった湯女のための部屋が、敷地内にある。

それは客室や湯殿から一番遠く離れた、菜園の端っこに立てられた掘っ立て小屋同然の粗末な部屋で、お世辞にも病人によい衛生的な環境とはいえない。

そんな場所に千尋を置くくらいなら、身重だと偽ってでも、この部屋に囲い込んでしまうほうがましだ。






それが、思いつめた龍の青年の本音だった。







が、千尋はくすくす笑いながら、さらりとそれを断る。




「何言ってるの。女の人たち相手にそんなごまかしきくわけないじゃない」

「・・・・・」

「それに、そこまでハクに迷惑かけられない」

「千尋、」

「ありがとう。わたしなら、すぐよくなるから。この2、3日、お父さんたちの看病でちょっと疲れが出ただけ-------」





そこまで言って、千尋ははっと顔色を変えた。





「ハク、あのっ、」

「うん?」

「今、何時?!」



おおよその時刻を答えると、千尋は真っ青になって布団から飛び起きようとした。



「お父さんたちのところに行かなきゃ!」

「え? 何を言っている、自分がそんな容態で・・・」

「だめ、きっと苦しんでる」








どうしよう、お薬が切れる時間を過ぎてる・・・!









手元にある薬草はもうあとわずかで、今夜をしのげるかどうかもあやしい量だったが、とにかく行かなくては、と千尋は懸命に身体を起こした。




「あとで私が様子を見てきてあげるから。今夜はよしなさい」

「だめなの! わたしが行ってあげないと、お父さんたち・・・・!」

「聞き分けのないことを言ってはいけないよ」

「でも!」







押しとどめる龍の青年の肩越しに。





喉から手が出るほどに欲しい薬草が青々と茂る鉢が見えた。















♪この壁紙はさまよりいただきました。♪