鐘楼(しょうろう)流し (18) 









「だめなの! わたしが行ってあげないと、お父さんたち・・・・!」

「聞き分けのないことを言ってはいけないよ」

「でも!」





まだ唇に血の気も戻っていない、起き上がるのすら辛いであろう身体で、何を言うのか。
懸命に宥めすかすハクの腕の中で、取り乱していた千尋の動きがはたと止まった。


少女の視線は彼の背を越え、何か別のものに奪われている。




「千尋?」




怪訝に思って背後を振り返ろうとしたハクの首に、千尋は両腕を回してしがみついた。



「え・・? ど、どうし・・?」

「お願い!あ、あの、あのね、」

「何?」

「あ・・・あの・・・・」



抱きついてくるなり必死で何かを訴えようとするものの、言葉にすべきものを探しあぐねているらしい少女の背を受け止めて、ハクはそっとさすってやる。



「落ち着いて。私はどこにも行かないから」

「ハク、・・あの、・・・・」

「うん?」




窓辺にたわわに茂る薬草に我を忘れ、唐突にとってしまった自分の行動を、千尋は激しく後悔した。

きまり悪げに身を引くと、青年の首から両手を解き、それを自分の膝の上に揃えてうつむく。



「大丈夫。ゆっくり話してごらん」

「・・・・・」






----------ど、どうしよう・・・










頼み込めば、もしかしてハクはあの薬草を分けてくれるかもしれない。
が、もともと彼はあれを使ってはいけないと、あんなに厳しく言っていたのだ。

その言いつけを破ったことは、どう言いつくろうこともできないし、当然彼の怒りを買うことになるだろう。
分けてもらえるどころか、手元に残っている薬までもが取り上げられてしまうかもしれない。それは、困る。


さらに、問い詰められればオオトの名も出さざるを得なくなることもありうる。
それはきっと、龍の青年の心をふたたびさわだたせてしまうにちがいない。

自分の不用意な言動で、せっかく落ち着いた彼にまつわる一件を、また蒸し返すような騒ぎを起こすなどとんでもないこと。



今、口にするべきことではない、と千尋は懸命に自分に言い聞かす。








「どうしたの? 困ったことがあるなら、聞くよ」

「・・・・・ううん」

「私に頼みごとなのだろう?」

「あ・・・ええと、・・・・」




生じてしまった不自然な間合いを上手にこなせないまま、千尋はうまく回らない頭でまごまごと言葉を探した。



「あ、あの、ああ、ええと、・・・お、送ってほしいな、って思って」

「送る?」

「う、うん。もう遅いし、部屋に帰る。その、、迷惑じゃなかったら、」




ハクはかすかに眉をしかめた。

部屋に送ってゆくくらい、迷惑でもなんでもない。
だが。




「そんな無理をしなくていい。今日はここで休んでいきなさい」

「でも、、、」




千尋のまぶたの裏に、畜舎で半狂乱になって苦しみ叫んでいるであろう両親の姿がちらついた。
とにかく、これ以上ここに長居するわけにはいかない。


仕方なく、彼女は一番言いたくなかったことを口にした。






「ハク? 女の子が若い男の人の部屋に泊まるわけにはいかないでしょう?」







・・・それを言われると、男には返す言葉がない。
ハクは黙って引き下がった。





女部屋の戸口まで送ってくれた彼の足音が階上に遠ざかったのを確認し。
千尋は手持ちの薬草の残りありったけを握り締め、畜舎へ向かった。







* * * * * * * * * *






みながしんと寝静まった夜更けの湯屋。
その屋根裏部屋へと続く階段を、そっとしのんでゆく人間の少女がいた。


雲がちな夜半(よわ)の月明かりが中途半端に足元を照らしたり暗みを作ったりしている古びた階段を、一歩上っては迷い、また一歩上ってはためらい。


その足取りは遅々としてなかなか進まないが、それでもこの階段を上り詰めてたどりつく先はひとつしかない。



とうとう階段の最後の一段を上りきり、裸電球に照らされた廊下のつきあたりの扉の前まで来たものの・・・戸を叩く勇気が出せないままに、うつむいて立ち尽くす。






『女の子が若い男の人の部屋に泊まるわけにはいかないでしょう?』







先ほどのあの苦い言葉が、針で突くように千尋自身を苛(さいな)む。

龍の青年がどれほど自分を心配してくれているのかは、わかり過ぎるほどに、わかっている。
その彼の誠実さに後ろ足で泥をかけるような、物言いだった。
やましい下心などかけらもなかったであろう彼を、どれほど傷つけたことだろう。










ハクに頼めた筋合いじゃない・・・・けど・・・









畜舎の様子は予想以上に壮絶だった。

半狂乱になっている明夫と悠子に刺激されて、まわりの多くの豚たちまでもがことごとく興奮状態になって暴れており、彼らをかきわけ肝心の病の持ち主に近づくことすら容易ではなかった。



しかも、手元に残っていた薬草は、やはり、充分な量ではなく。
もっともっと、と薬をせがむ両親をなんとかなだめすかし、やっとさきほど落ち着かせはしたものの、あの様子ではまた苦しみ出すのも時間の問題だった。




あんな酷いことを言っておきながら、その舌の根も乾かぬうちに彼の情けにすがろうとするなど、どれほど恥知らずなことか、それは重々承知していたが。


他に方法もなければ、頼れるあてもなかった。





震えるこぶしを握り締め、ぎゅっと目をつぶって扉を叩こうとしたとき。

目の前ですっと戸が開き、そこに夜着姿のハクが難しい顔で立っていた。



「・・・あ・・・、あの・・・・」



肌慣れした白木綿の単(ひとえ)。
その肩に、濃紺の簡素な茶羽織を引っ掛けて腕組みをしている。



※茶羽織:お茶席用の着物とかじゃなくって〜〜
えーと、温泉宿とかで、浴衣の上に羽織る
はんてんみたいなの貸してくれますよね?
アレのコトです^^;たとえばこんな




「千尋。あれほど言ったのに、畜舎に行ったね?」

「・・・・・・あ・・・・・」

「身体をこんなに冷やして」



ハクは茶羽織を肩からするりと落とし、それで千尋を包む。
むつりとしたままあまり表情も変えず、淡々としたしぐさではあったが、その衣に含まれた彼の体温を感じて初めて自分の身体が冷え切っていたことに気付いた千尋は、瞬間気持ちの芯がぐらりとゆらぎそうになる。

冷たいすきま風の躍る階段を上ってくる人間の子の気配に、ハクは少し前から気付いていたにちがいない。
寒さをあまり苦にしない彼が珍しく羽織りものをまとっていたのは、最初からそれで自分に暖を取らせるつもりだったのだ。




「女部屋で休むというから、帰らせたんだ」




------『泊まってゆくのは良くないのに、夜更けに忍んでくるのは構わないわけ?』
そんな嫌味のひとつも言おうかというところだったが。


男物の羽織の中で身を縮め可哀想なほどにしおれてしまった少女の姿にほだされて、ハクは口調を心持ちやわらげた。



「何か急ぎの用でも?」



千尋がかすかに頷く。
結い上げ髪をいただく白いうなじが、自分の濃紺の茶羽織の襟元からのぞいて心細げに震えているのが、痛々しい。


階段から吹き上げてきた風が彼女の素足を赤くかじかませている。
それを見て、少し考えてからハクは言った。



「・・・・・・入る?」






* * * * *






扉をくぐるなり、千尋は寒々とした台所の板敷きの床に両手をついて、頭を下げた。




「ハク。お願いがあるの。何も聞かずに、うん、と言って」

「え?」

「助けてほしいの」

「ち、千尋・・・?」



いきなりのことに、ハクは狼狽した。
さきほどもどうも様子が変だったし、何かあるのだろうとは思ってはいたものの、ここまで平身低頭に出られると正直面食らう。




「ああ、うん、話を聞くから、顔をあげて。そんなふうにされると落ち着かない」



ハクは宥めるように千尋の肩に手を添えたが、千尋は床に額をすりつけたまま哀願した。



「あやまるから。さっきのことはどんなにしてでもあやまるから」



少女の声はすでに半分涙声になっている。



「困ったな。どういうことか、わかるように説明してくれないかな」

「どうしても欲しいものがあるの。譲ってほしいの」

「だから、何を」



頼られるのはやぶさかではないが、事情が飲み込めない以上返事のしようがない。

とりあえず畳部屋へ、と思ったが、襖(ふすま)の向こうの四畳半には自分の寝具が敷いてある。
そこへ入れ、というのもまずいだろう。



「ちょっと待って。部屋を片付ける」



そう言ってハクが開けた襖(ふすま)の向こう、正面奥の窓辺に。
千尋の視線は吸い寄せられた。




「ハク・・・」

「うん?」

「ごめんなさい-----------見のがして!!




言うなり千尋は立ち上がり、ハクを突き飛ばすようにして駆け出した。



「えっ?! ちひ-----!」



そして窓辺の薬草の鉢を胸に抱えるやいなや取って返し、部屋を突っ切ろうとした千尋の腕を、ハクがあわてて捕まえる。




「だめだ千尋、それは!」



青年の手を振り切ろうと少女が身をよじった拍子に、鉢はその手から滑り落ち、ごろりと畳に転がった。

敷かれていた褥(しとね)に鉢の中身はばらばらとこぼれ、白い布団の上に毒々しい緑の薬草と湿った土くれが散らばる。


「ああっ!!」


あわてて拾おうと手を伸ばした千尋の身体を、ハクがぐいと引き寄せて止めた。



「だめだと、言っているだろう?!」



ついに声を荒げた青年の腕の中でなおも千尋は暴れ続け、逃れようともがいたはずみに一気に体勢が崩れて、二人はそのまま土まみれの寝具の中に倒れこんだ。

千尋に怪我をさせまいと、とっさにハクが彼女をかばったのが一瞬の隙となり。
瞬間力の緩んだ青年の腕の中から転がり出て、千尋は薬草の一株を掴み取った。



「千尋!」



薬草を握った千尋の手首をハクが取り押さえ、強引にその手の中のものを振り落とさせたが、まだ千尋はあきらめようとしない。



「いいかげんにしないか!」



とうとうハクは少女の両手を敷布に押さえ込み、のしかかるように体重をかけて力づくでその動きを封じ込めた。



本気でかかられれば男の力にかなうわけもない。
あらがうすべを失い身動きひとつ取れなくなった少女は、肩で荒い息をする龍神の下でぽろぽろと涙を落とした。






はっとして動きを止めるハク。








これではまるで、無理やり押し倒したようではないか!!








他でもない自分に自由を奪われて泣いている哀れな想い人の姿に、彼の心は掻き乱された。
かといって、今力をゆるめれば、また先ほどと同じことの繰り返しだ。



「あ・・・、あのね、千尋」



千尋を落ち着かせて、きちんと説明しなければいけない。
彼女のまわりに取り散らばっているこの草の薬害について。

これは麻薬と紙一重であるものだと、納得させて、あきらめさせなければ。
これを用いることは決して両親のためにはならないと。


だがしかし、そんなものがなぜこの部屋にあるのかと聞かれれば・・・・いったいどう答えればよいのか。


何からどういうふうに話せばいいのか。
どこまで彼女に教えていいものか。



決めかねる龍神の目の前で、千尋は震える唇を開いた。



「ハク・・・・わたし、聞いたの・・・これを食べれば、お客様の食事に出されることはないって・・・・だから・・・」

――――――!!





ハクは愕然とした。


  なぜ、彼女がそれを知っているのか。
    どこからそんなことが漏れたのか。


      話さなければならないのか。

        豚が神の食材となることが、何を意味するのか。
          神の食材となれずに死ぬことが、何を意味するのか。




「痛みにも効くんでしょう? 苦しんでるの。見てられないの。」





痛みに効くのは、痛みを感じる心を殺すからだ。
薬による快楽に酔わせて、人らしくあることをやめさせるからだ。








「千尋」





しかも。


この恐ろしい薬草を、今自分の下で泣いているこの少女に使わなければならないかもしれない可能性を。





「ハク、・・・」







いったいどう、『説明』しろというのだ!
























「・・・・好きだ」



























------------え・・・?


















何をどう言葉にすればよいのか判断のつかない激しい感情の渦に、頭からどっぷり飲み込まれたまま。
行き所をなくして零れ落ちたことのはのかけらは、自分でも思ってもいなかったとんでもないものだった。




龍神はおのれのおろかさを心底呪った。
が、一度声に乗せてしまったものは、もはやどうしようもない。








「・・・・ハク・・・・?」

「好きだ」
















ああ、こんな時に! 何を言っているのだ、私は!












千尋は声を失い、身をこわばらせて唇を震わせている。

彼女にこんな顔をさせたくない一心で、今まで自らを抑えに抑えてきたというのに。











この娘をこれ以上泣かせて、どうする!









それでもなお、口を開けば何度でも。
何度でもまた同じことを言ってしまいそうで。



大きく見開かれた少女の瞳の中に。
溢れ出る想いを堰き留めようと必死に唇を噛み締める男の、みにくく歪んだ顔が映っている。


龍の青年が自分のふがいなさに歯噛みした時。








信じられないことが起こった。















彼の目の前で。
千尋がそっと目を閉じたのだ。











「え・・? 千尋・・・・?」








少女は何も答えない。

が、そのしぐさはどう見ても恋人からの口付けを待つ娘のそれだった。





龍の青年が彼女の腕を戒めていたおのれの手をゆるめると、-------自由を得た彼女の指先は、ぎゅ、と彼の袖を掴んだ。


握り締められた衣から伝わる彼女の指の震えが、そのまま若い龍神の心臓をわななかせ、めぐる血潮は波をなして熱く全身を乱れ打つ。



差し出された娘のやわらかそうな唇の感触を今すぐ欲しいままに貪りたいと。
渦となってこみあげる体内の熱を沸点ぎりぎりのところで抑え付け、ハクは少女のまぶたに残る涙の跡に、静かに、できるだけ静かに、唇をおしあてた。





「千尋」





そして、震える声で彼女の意思を最終確認する。





「拒むのなら、今のうちだ」













少女は耳たぶのはしまで薄朱に染めて
かすかに首を振った。
















♪この壁紙はさまよりいただきました。♪