鐘楼(しょうろう)流し (19)
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懸命に伸ばした手で掴み取った薬草は、あえなく振り落とされた。 なおも食い下がろうともがいたところを、今度は本気で押さえつけられた。 「いいかげんにしないか!」 自分に対して声を荒げることなどめったにない龍の青年。 その口から発せられた、やりきれない苛立ちのこもった固い言葉。 ああ。とうとう怒らせてしまった。
当然だ。 頼みごとがあると哀れっぽくやって来ておきながら。 こともあろうか、彼の隙をついて部屋の薬草を泥棒のように持ち去ろうとしたのだから。 掴まれている両手首が、しびれて痛い。 夜着の胸元を振り乱し、荒い息に肩を弾ませる彼の額には汗が滲んでいる。 あとこぶしひとつぶん腕を伸ばせば届く位置に、薬草はばらばらといくらでも散らばっているのに、圧倒的な男の力の前には指一本動かせない。 自分の上で息を切らせている美しいひとが、苦しげに顔をしかめているのが滲む視界の向こうに霞む。 彼が本来、女に対してこんな手荒な真似をする男(ひと)ではないことは、誰よりも良く知っている。 悪いのは一方的にこちらであるのに、まるで加害者であるかのようにハクがおのれの行動を恥じているのが見て取れた。 ・・・ここで女の方が泣くのは卑怯だとわかっている。 が、自分ではとどめようもないものが熱い雫となってあとからあとから頬を伝う。 両腕を戒められたまま、その涙を拭うことも覆い隠すこともできず、みっともない泣き顔を彼の目の前にただ晒していることしかできないのが辛く。 そして、こんな状況に自分たちを----------いや、ハクを--------追い込んだのが他でもない自分であることが、たまらなく情けない。 それなのに。 まるで台本を読むように口をついて出たのは謝罪の言葉ではなく。 「ハク・・・・わたし、聞いたの・・・これを食べれば、お客様の食事に出されることはないって・・・・だから・・・」 龍の青年がさっと顔色を変えたのがわかった。 恥ずかしい。まるで、だまし討ちのようなことをしているくせに。 それでもなお、彼の同情を引く言葉を探し、舌にのせている。 人として女としてこれほど見苦しいことはない。でも。 「痛みにも効くんでしょう? 苦しんでるの。見てられないの。」 掴まれている手首から、彼がわなわなと震えているのが伝わってくる。 この期に及んで、厚かましくもまだそんなたわごとを言うかと。 もうきっと、すくいあげようもないほどに、軽蔑されている。 ハクが口元をぶるぶるとゆがめているのは。 口を開けばこの卑怯な娘をののしる言葉が今にも飛び出しそうだからに違いない。 ああ、せめて泣くのはやめないと。 白々しいそら涙を武器に使っていると思われている。 「千尋」 やめるから。これ以上、泣くのだけはやめるから。
------------え・・・?
* * * * * * * * * * * * 「思ってたより重症だねぇ。どうしたもんだろうね」 豚の眠る畜舎の柵の前に座り込み、思案顔で腕組みしているのは、この湯屋の支配者の姉。 正確に言うと、こっそり湯屋にしのばせた式をよりどころにし、半透明に像を結んだ銭婆の姿だった。 「まったく。あの子ったら魔女のくせに、へんなところで情に弱いんだから」 患部をぱんぱんに張らせて浅い眠りを貪っている二頭の豚の前で、銭婆はため息をついた。 彼女が『へんなところで情に弱い』と評しているのは、自分の妹のことである。 豚となった明夫・悠子夫妻がこの世界でここまで生きながらえているのは、条に反すること。 麻薬まがいの薬物で命をうすく引き伸ばし、ずるずると余命をつないでいることは、ひと目でわかった。 本来なら、もっと早く、もっと自然な形で、生を終わらせてやるのが、支配者としてのつとめであろうに。 少なくとも自分なら、そうする。 冷たいと思われようが、薄情だとなじられようが、理(ことわり)は遵守するべきだ。 割り切るべきときには割り切るのが自分。 人の口評など気にはしないが、『銭婆は怖ぇ』などと評されるのは、きっとそのあたりのことを指すのだろう。 そして意外に思われるかもしれないが、実はそういうことが案外苦手なのが、妹、湯婆婆であったりする。 醜く病んだ身体で不自然な生にしがみついている二頭の豚。 もう一銭の利益も生み出しはしない彼らを、厚遇はしないが切り捨てもせず、だらだらと湯屋の畜舎に置いている、そんな一面が彼女にはある。 自分から見ればそれは、問題を先送りしているとしか思えないのだが。 昔々、まだ自分たちが幼かった頃、ともに可愛がって飼っていた猫が死んでしまったことがあった。 命尽きたものは仕方がないから、きちんと葬ってやるべきだと主張したのが自分。 他の生き物から命のみなもとを掠め取って来てでも、可愛い猫をよみがえらせるべきだと口から火を噴いて暴れたのが、湯婆婆。 結局あの時は、力量でまさる自分に妹は屈したが、あれ以来妹はこの姉を『性悪女』と呼んではばからない。 「さて・・と。下手に手出しはできないけど」 もしも自分がこの湯屋の主であったとしたら、どんなに千尋に泣きつかれようと、弟子に恨まれようと、きちんと理を通すであろう。 かわいそうだが、あの二人がしていることは、正しいとは思えない。 きっと、後からもっと辛い思いをする。 不運な龍と人間の子を、哀れに思う気持ちは・・・・おそらく自分も妹も同じではないかと、銭婆は思う。 まあ、そんなことを口にしたら、妹は顔を真っ赤にして怒るだろうが。 要するにそれは、彼女なりの独特の照れで。 強欲者で通っている湯屋の魔女の仮面の下には、意外にも人情にもろいところがあることを、自分は知っている。 比して自分は、普段は質素で穏健な白い魔女として一般に知られているが、曲がったことについては、実は妹よりずっと容赦がない。 感情を生のよりどころとする、妹魔女。 道理を尊ぶのをよしとする、姉魔女。 情と理、相反するふたつのものは、本来一つの人格の中に上手に折り合いをつけて同居するべきもの。 それを、自分たちはひとつずつに分け与えられて生まれてしまった。 昔から仲が悪いくせに、かといって完全に独立別離できずに暮らしているのも、当然といえば当然かもしれない。 そして、情の命ずるままに奔放に生きて坊を産んだ妹を、心のどこかでうらやましくも思う、姉魔女だった。 あの龍の子にしても、川をなくした時、妹を頼ったのはある意味正解だったかもしれない。 湯婆婆は彼を弟子として使い勝手よく利用し、悪事にも手を染めさせたが、少なくとも生き延びたいというあの若者の願いには手を貸してやったわけで。 もし彼が弟子にして欲しいと門を叩いたのが自分の方であったなら------魔法で川を取り戻すなど道に反すること、運命を受け入れて素直に次の生へ流れてゆくほうが幸せだと、自分は彼がうんと言うまでこんこんと教え諭したことだろう。 まあ、どちらがよかったのか、それはハク龍自身が判断すればよいことだけど、と、銭婆は横道にそれた思考を打ち切り、再び目の前の豚たちに視線をもどす。 現実を突きつけるのは損な役回りだが。 「可哀想だけれど・・・まずは千尋ちゃんのほうから、かしらねぇ」 自分も一度は彼女に加護を与えた身、ほおってはおけないのだ。 そして。 生にはぐれた、哀れな龍の子の目を曇らせているものも。 いずれは取り払わねばならない。 * * * * * * * * * * * *
「・・・・ハク・・・・?」 おろおろと何をか言いかけた千尋の言葉は、 「好きだ」 短く重ねられた青年の言葉に遮られた。 見下ろす悲しいほどに綺麗な翡翠色の瞳の中に。 返す言葉も見つけられずに呆然と目を見開いた、愚かな娘の顔が映っている。 折り重なった身体の重みとともに伝わってくるハクの体温。 それが、熱をはらんだ檻(おり)となって千尋から逃げ場を奪う。 慕う男の固い胸板の下に封じ込められたまま、振り絞るような愛の言葉を落とされて、千尋の思考は完全に止まってしまった。 ずっと昔から、こういう『万一の場合』にそなえた心の準備はしていたはず。 『ハクのことは好きだけど』『お兄さんみたいに思ってるの』『おともだちでいたらいけない?』―――――きちんと用意していたはずの紋切り型の言葉の数々。 それらがどうしても、出てこない。 ハクはぐっと唇を引き結び、そこから先は何も言おうとしなかったが。 そのごく短い言葉にこめられた重い余韻が、千尋の心と身体を縛って放さない。 かたくなな娘心のひだを芯から揺さぶり、甘い波紋を刻みながら、そのいちばん深いところを熱色に染める。 打ち消しても押しのけてもじわじわと全身を締め付ける、その痛みにも近い幸福感が苦しくて耐えられなくなって。 ひた隠し抑えこみ、殺し続けてきた恋心に押し流されたのは
人間の娘のほうが先だった。 千尋は、自分を縛っていた足枷(かせ)を、自分で蹴り捨てた。 「え・・? 千尋・・・・?」 のどもとまでこみ上げてくる気持ちを言葉にするかわりに。 千尋はハクの腕の中で、そっと目を閉じた。 それが精一杯の意思表示。 今まで散々苦しめてしまったひとが、自分の行動に応じてくれるかどうかはわからない。 でも。 たとえ意趣返しに弄ばれても。 逆に無視されて恥をかかされても。 それでもいいと思った。 「千尋」 かすかな震えを含んだ、慎重なくちづけが、まぶたに落とされた。 「拒むのなら、今のうちだ」 そんなふうに、言わないで。
青年の気持ちにほだされてやむなく唇を許す気になったのではない。 ましてや、泣く泣く意に染まぬ相手のいいなりになっているわけではない。 自分から望んで。 ずっと好きだったひとと唇を重ねたいと思う女心の、そのどこがおかしいと? |