鐘楼(しょうろう)流し (20) 









* * * * * * * * * * * *







    「ごめんなさい・・・・・これが初めてじゃないの」



    空洞となった青年の頭の中に。

    衣服を整えた少女の細く震える声が追い討ちをかけた。




    「・・・・え? ちひ・・・・?」



    乾いた喉からしぼり出された掠れ声は返答にもならず。

    腕の中からすり抜けていった彼女を引き止める力もなかった。




    「わたしがいけないの。ハクはなにも悪くないから」



    呆然と畳に膝をつく龍神の意識の向こうに。

    扉を閉める乾いた音が響いた。









* * * * * * * * * * * *









まぶたに感じたものと同じ、力がこもりすぎないよう細心の注意を払っているのがわかる口付けが、頬に落とされた。



拒絶などしない、と。
小さく首を振って伝えたのに。



ハクはまだ、ためらうかのように、そして確かめるかのように、何度も何度も頬への浅い接吻を繰り返す。

千尋はハクの腕の中でおとなしくなされるがままになっていた。









嫌がったり。

泣いたりなんて、しないよ?










傷つけたらどうしようといわんばかりに、恐る恐る触れてくる青年よりも。
このときはむしろ、少女の方が落ち着いていた。

じれったいほどの念入りな打診を頬に受け、小さな期待と緊張に胸を高ぶらせながら、彼の次の行動を待っているのは幸せだった。











が、次の瞬間、二人の―――――翻弄するほうとされるほうの―――――立場は、完全に逆転する。













す・・、とハクがそれまでの行為を止めた。












・・・・・?











怪訝に思った千尋が薄くまぶたを開けようかと思ったとき、いきなり顎に荒い男の手がかかり、少女の顔はぐいと上向けられ。

直後、堰を切って押し寄せてきた激しい雨礫(つぶて)のような口づけは、甘いとか優しいとかいうものとはほど遠いものだった。










・・・っっ!?・・・っ、ーーーーっっっ!!!








力任せ、といってもいいほどの強さで唇を吸われ、千尋は仰天した。
痛い。とにかく、痛い。唇が千切れてしまいそうだ。



それを訴えたくて身体をよじろうとしたが、青年はそのようなことは許さないと言わんばかりにぎりりと少女を抱きしめ、口づけにさらに熱をこめる。





「・・っ、・・ちょっと、待っ――――――!」

「だめだ」

「あ、、でも、・・ハ、・・・・っ」

「いまさら遅い」




千尋の悲鳴にも近いことのはのきれはしは、あえなく切って捨てられる。
迷うことをやめた龍神に、もう抑えはきかなかった。

彼はほんのいっときの猶予も与えず、おのれの熱をくちうつしに少女に注ぎこみ、同時にそれと同じだけの熱を彼女の唇から奪い取ろうとする。

たたみかける高波のような雄の力の前に無力な人間の娘はなすすべもなく、ことの勢いに呆然としたまま豪流に飲み込まれ押し流されてゆく。





子供の頃、アニメーション映画や絵本で見て憧れていた、白雪姫やオーロラ姫が王子によって眠りから覚まされるロマンティックなキスシーン。

それらとは似ても似つかない、自身のこの体験に千尋は心底動揺する。
龍というのは激しい生き物だとは聞いていたものの、これほどとは思わなかった。

ハクの唇の熱も力も、すべて自分への愛情ゆえのこと、それは疑いようもないと思うし、この行為に誘いをかけたのは、・・・そもそも自分のほうだ。

もちろんそれはわかっている。

わかってはいるのだが、突然はね上がったハクの温度に急には追いつけず、千尋はどうしていいかわからない。


がちがちと震えながらハクの夜着にしがみつく以外、どうすることもできない千尋は、まるで、嵐が通り過ぎるのを待つ小動物のように身を凝らせていた。









が、そこまで追い詰められた少女に。
さらに追い討ちがかけられた。









息苦しさに耐え切れず、酸素を求めて本能的に開かれたかよわい唇のあいだに、








――――?






強引に何かが侵入したのだ。







・・・・なにこれ。







一瞬千尋の意識はぽかんと空白状態になり、










・・・・って、ええ・・・・っ・・・・っっっ??















『それ』が何なのかに気付いてはっとした時にはすでに遅く―――――完全に無防備だった少女の無垢な舌は、男のそれにやすやすと抱き取られていた。








「ぁ・・・っ、ハ・・・ぅうう・・・・っ!!!」






職場柄、何の知識もなかったとは言わない。
こういう口付けがあることは、聞き知っていた。

とはいっても、今自分にこんなことをしているハクと、これまでの彼との間の落差が大きすぎ、気持ちの準備が間に合わない。


こわばる顔を両側からはさんで固定する男の手の力は驚くほど強く、ほんの少し首を傾けることもままならず。

声はことばとなる前にすべて彼の舌に奪い取られ、苦しげに喘ぐくぐもった吐息のかけらだけが切れ切れに漏れて狭い室内にあやしく吸い込まれてゆく。


それがさらに男の熱焔に油を注ぎ、くすぶる情炎を心の奥底から煽るらしく。

彼の口付けは深くなる一方で、千尋はただただ、ハクの舌を噛んで怪我をさせてはいけないと、ともすればがちんと閉じてしまいそうになる上あごと下あごを懸命に支えるので精一杯だった。


呼吸の間さえ惜しいとばかりに口内で繰り返される抱擁は、熱く長く尾を引きながら千尋の意識にまとわりつき、がんじがらめにして放さない。
それは、延髄を直接舐め上げられているような、頭の中を素手で掻きまわされているような強烈な刺激で、こういうことに免疫のない少女にとっては責め苦に近かった。


ハクのこの行為をいやらしいとかきたならしいなどと思うまでに、子供ではないものの。

千尋の身体はまだ、こういった愛情表現によって火がつき燃え上がるほど女として成熟してはいなかったし、ましてや、暴走する雄の情熱を受け止めて、それがもとの水位に鎮まるまで穏やかに包み込んでやるような精神的余裕など、あろうはずもなかった。


濃密すぎる感覚に否応なく引きずり込まれていく全身。
未知の領域に侵されていくことに悲鳴をあげる心。


両者のせめぎあいに、たった今初めて唇を他人に触れられることを知ったばかりの少女が、耐えられるわけがない。

間断なく注ぎ込まれる波のような痺れが、苦痛なのかそれとも恍惚感というものなのかの区別すらつかないまま、一方的と言ってもいいほどの強引な、濃厚すぎる感覚に縛り上げられていく中、・・・・千尋はふと漠然とした不安に襲われた。










まさか? まさかとは思うけど?










ここまで激しい彼は、見たことがない。












キスだけじゃ終わってくれない、なんてこと。



・・・・ない・・・よね?













この口づけだけでも、想像をはるかに超えるもので。
それすら受け止め切れずに、立ち往生している自分が。

いくらハクが相手だとはいえ、これ以上の行為に、応じられるのだろうか。

このまま・・・このまま万一、彼がからだまで求めてきたら。
どうしたらいいのだろう。


きっかけをつくってしまったのは。
彼の心の固いかんぬきを開けてしまったのは。

あさはかで無知な自分の方だ。










で、でも、ハクにかぎって、そんな・・・













ぐるぐると思い悩む千尋の緊張感がとうとう限界に達したとき。

さすがに男のほうも、腕の中の娘の様子にやっと気付いたらしく、そろりそろりと、ようやく手加減というものを加え始めた。



大蛇(おろち)さながらの荒暴さで少女を絡め上げていた舌から力を抜いて、詫びるような甘えるようなしぐさでやわらかく彼女のそれを包みなおす。


そして、その細い指先をそっと握り、千尋の呼吸が落ち着くのを待ってから、名残惜しげに唇を離した。






「ごめん。その・・・いきなりで悪かった」

「・・・・・・」





千尋がうっすらと目を開けると、心配そうに眉根を寄せる美しい青年の顔が間近にあった。



「・・・・辛かった?」



だいじょうぶ、と伝えようとした言葉は、かすれてうまく声にならず。
絶え絶えな吐息だけがやわい唇のあいだからこぼれて、それがまだ濡れている龍神の唇のおもてをかすめてふるわせる。

ハクはおのれの行き過ぎた行動を、反省した。



あらためて見ると千尋のありようは相当に酷く。

もつれあった時に水干の襟元の結い紐が切れてしまったらしく、だらりとはだけた首元から、緩んだ肌着のあわせがのぞいている。
乱雑にまくれあがった袴のすそから、たよりなげな太腿と丸いふたつの膝小僧があらわになっており、それらは押し開かれたらどうしようといわんばかりにぴったりと閉じられて震えていた。



「あ・・・! すまない、その、・・決してそんなつもりでは・・・・、」



乙女のあわれな姿に気付いた龍の若者はあわてて身体を起こし、娘の乱れた衣服を引っぱって、肌を隠してやる。



「私はただ、そなたが愛しくて、・・・・本当にそれだけで・・・・」



目の前のやわ肌にさわらぬよう、ハクはそれはそれは気を使って着物を直してやったつもりなのだが、千尋は、肌の上を衣(きぬ)がすべるたび、まるで一枚ずつ身にまとうものを脱がされているかのように、びくりと身体をこわばらせ、ぎゅっと目を閉じる。


そのさまが彼女の受けた衝撃の大きさをなによりも如実に物語っていて、ハクは抑制のきかない龍の性(さが)を心底呪わしく思った。
愛しい娘にとんでもなく酷いことをしてしまったような気持ちに耐え切れず、彼は胸がつぶれるような思いで千尋を抱き寄せ、おろおろとその額にくちづける。




「起きられる?」



ハクに抱えられるようにして、千尋は重い身体をようよう起こす。
貧血でもともと体調のすぐれなかったこともあり、体勢を変えると頭がくらくらした。


ハクは畳に取り落とされていた自分の茶羽織を拾い上げ、それでそっと千尋の体を包みこみながら、もういちど謝った。



「そなたの身体の具合も考えずに、・・・・許して欲しい。私は本当に愚かな男だ」




千尋は弱々しく首を振った。


が、顔を上げた彼女の視界に入ったものは。





自分たちの暴れたさまをそのまま形に残した、皺だらけの夜具と。
その上にばらばらと散らばっている薬草だった。










・・・・・っ!!!







「千尋?」










わたし・・・わたし、何やってるんだろう!?











目に飛び込んできた、蕨(わらび)に似た形の草の毒々しい緑色が。


千尋に現実と。
ここへやってきた本来の目的を思い出させた。




嵐のような。そして夢のような熱い波に身も心も千々に乱され流されて。
両親のことを完全に失念していた自分を、千尋は心の底から責めた。
















ごめんなさい。おとうさん、おかあさん。










ごめんなさい。


ハク。











「千尋?」



急に表情をこわばらせた少女の顔を気遣わしげにのぞきこむ龍神。



「どうしたの? やっぱり気分が悪い?」



千尋は大きく息を飲み込み、両手でハクの胸をぐい、と押しのけた。そして。



「ハク」




美しい碧の瞳を見据え、冷たく言い放った。




「これでいい?」














瞬間、ハクは何を言われているのかわからなかった。



が。






「これで、―――――これで、お薬分けてもらえる?」










千尋の言葉に、彼は奈落の底に突き落とされた。








「え・・・・ちひ・・・・何を言って・・?」



「・・・・もっと?」







青ざめた唇を噛み締めた少女の両肩に思わず手をかけて、ハクはがたがたと震えながらかぶりを振った。




「ちが・・・違う、千尋、・・・私は、そんな、・・そんなつもりでは、・・・・」




悔惜と混乱に顔色を失った青年の目の前で、千尋は掴まれた肩を振り払いもせず、どうぞお好きにと言わんばかりに、もう一度その目を閉じて見せた。



その残酷な仕草に、ハクの指先からすっと体温が抜け落ちたのが、彼の掛けてくれた羽織ごしに感じられた。

目を開けると、碧色の瞳が焦点を失って凍りついていた。


千尋は膝元に転がっていた薬草のひと房を握りしめ、無言で立ち上がる。


はっとしたハクがあわてて千尋を抱きとめようとしたが、千尋の行動に一瞬の差で間に合わなかった。






彼の手の中には、ぬけがらとなった羽織だけが残り。


千尋はするりと彼に背を向けていた。






「ち・・・千尋!」




かろうじて残っていたなけなしの判断力を奮い起こし、ハクは千尋を呼び止めた。



「その薬草を使っては、いけない」



戸に手をかけようとしていた少女がぴくりと止まった。




「使ったら最後だ」




千尋は振り返らずに、小さく目を伏せる。




「うん。・・・・・知ってる」

「え?」



空洞となった青年の頭の中に。



「ごめんなさい・・・・・これが初めてじゃないの」




少女の細く震える声が追い討ちをかけた。



「・・・・え? どういう・・・・?」



乾いた喉からしぼり出された掠れ声は返答にもならず。



「もう何度もこの薬、あげてるの」

「ちひ・・・ろ・・・・?」



腕の中からすり抜けていった彼女を引き止める力などなかった。




「わたしがいけないの。ハクはなにも悪くないから」




呆然と畳に膝をつく龍神の意識の向こうに。
扉を閉める乾いた音が響いた。











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