鐘楼(しょうろう)流し (2) 










流れ水がさざさざと岸草を洗う音。
背中に冷たい小石の感触。

頬になまあたたかい風。
目を開けると、星のない空。


龍の少年はゆっくりと身体を起こした。







   --------あの子は無事だったろうか。






人気のない水辺はとても静かで、聞こえてくるのはせりせりと石に染み入る浅い水音だけだった。



彼は軽く頭を振っておもむろに立ち上がると、ほのぬくい闇の中、吸い寄せられるように川音の流れる方角へと歩き出す。



彼は名をニギハヤミコハクヌシと言った。
つい先日までは、・・・・そう、ほんの数日前までは小さな川の主をつとめていた龍神であった。



歩みを進める先に、小さな灯が見える。
それは小振りな灯篭船で、水辺の花をうすく漉き込んだ紙を透かして、ろうそくの炎がちろちろと揺らいでいた。



そのごく弱い明るみを囲んで、数人の男たちがひっそりと寄り集まっている。

彼らは近付いてくるコハクヌシに気付き、静かに一礼した。


コハクヌシも丁寧に返礼する。

「お見送り、かたじけなく存じます」





男たちはコハクヌシをそっと輪の中に招き入れた。



「よりによって・・・・このあたりで一番若いそなたが先に逝くことになるとは・・・」

「仕方がありませぬ。これも運命(さだめ)にございましょう」

「人間というものは、愚かなものよのう。恵みの川を埋めてなんとしようというのじゃろうか」

「もとはといえば私の力が至らずに招いた事態でございます。かたがたには心より申し訳なく」



やりきれない思いを噛み締め噛み締め言葉をかける男たちと、それに淡々と応じる若い龍神。




「では始めるが・・・・コハクヌシよ、思い残す未練など、決して抱いてはならぬぞ?」

「はい」



コハクヌシと男たちは砂利を踏みしめて、川へと向かう。

年若くして逝かねばならなくなった、悲運の龍神の魂を灯篭船とともに送り出すために。



低い声でまじないの言霊を唱えながら、川流しの儀式の準備を始める昔馴染みの神たちに頭を下げながら。


コハクヌシは。


先だっての河原で、必死に自分の着物にしがみついていた一人の少女のことを思い出していた。







   --------確か・・・・千尋、という名だった。







彼女に初めて会ったのは一年前の夏。
まだ、自分の川は健在で、こんなことになろうとは思ってもいなかったころのこと。

自分は基本的に人間は嫌いではない。
中には粗暴な者や無礼な者もいるが、それは人間に限らず神にしても動物にしても同じこと。

田舎の小さな川ということもあって、自分のもとに集まって来るのは川釣りをのんびり楽しむ者や、水遊びをせがむ小さな子供を囲む家族連れが多く。

そういう人間たちの楽しげな様子を眺めるのが、彼は好きだった。




千尋、という少女もそんな人間の一人で。
少し大きめの靴を履かされていたためか、どうも歩きにくそうで足取り危なっかしいなと思っていると、案の定、橋からぼちゃんと自分の中に落ちてきたので助けてやったのだった。

あんあん泣きながら、舌ったらずな口調で懸命に礼を言う姿がたまらなく可愛らしく。







   --------えーんえーん、えーん。

   --------もう大丈夫、泣かないで。水は飲んでいないね?

   --------えーん・・えっえっ、・・・・うん。えっえっ。

   --------気をつけるんだよ。私は小さい川だけれど、流れは速いから。

   --------ん・・・。

   --------さ、お母さんが呼んでいる。お帰り。

   --------おにーちゃん、ありがと。

   --------うん。




少女はばいばいしようとした小さな手をふと止めて、唐突に川の神に尋ねた。




   --------おにーちゃん。

   --------うん?

   --------おにーちゃん、おなまえなんていうの?

   --------名前?

   --------うん。




人間に名を尋ねられたのは、初めてだった。




   --------・・・・ニギハヤミコハクヌシ。

   --------に、にに、、??

   --------ニギハヤミコハクヌシ。

   --------に、にみはやぎ、こはこは、、こ、、、?




川の神はくすりと笑って、混乱している幼な子に少しずつ順番に自分の名を教えてやることにした。




   --------言ってごらん? 『ニギ』。

   --------にぎ。

   --------ハヤミ。

   --------はやみ。

   --------コハク。

   --------こはく。

   --------ヌシ。

   --------ぬし。

   --------ニギハヤミコハクヌシ。

   --------ににはやぎこはぬくしっ!!



自信満々、声高々にその呪文のような言葉を口にする少女に、彼は声を上げて大笑いした。



   --------・・・・おにーちゃん? どしたの?



あははと腹を抱えて笑う少年を不思議そうに見上げる少女。



   --------ごめんごめん。『コハクガワ』でいいよ。

   --------コ、コハ・・?

   --------まだ言いにくい? じゃ、『ハク』にしよう。

   --------ハク?

   --------そうだよ。

   --------ハク。

   --------うん。




少女の小さなくちびるからこぼれる自分の名は、とても心地よいもので。
耳をくすぐるその甘い響きを、彼は何度も反芻した。




   --------ねえ、ハク、またあそべる?

   --------うん。いつでもおいで。





少女はきらきら揺れる木漏れ日の中、何度も何度も振り返って手を振りながら、母親のもとに帰って行った。

コハクヌシも、彼女が振り向くたびに手を振り返してやりながら、その姿が見えなくなるまで見送っていた。



夏のはじめ、龍の子が初めて経験した、人間の娘との楽しいひとときだった。




がしかし。

彼女は二度と琥珀川には姿を見せなかった。
彼女に限らず、人間の子供が遊びにくることは、なくなった。


子供が溺れかけた川、ということで琥珀川は遊泳禁止となったのだ。







それまで一人でいることがあたりまえで、
それを特に苦痛にも思わなかった彼が。


ひと恋しい、という気持ちを、
生まれて初めて、知った。









そうこうする間に、不幸にも彼の川は人の手によって埋め立てられてしまい。
琥珀川は、『死んだ』。


そして、川の主の龍も、死出の旅路につくところとなり。

この世に別れを告げ、仲間の神々の手によって『川送り』されるべき場所------俗に言う『三途の川』--------へ向かう途中で、くだんの少女に偶然再会したのである。



彼女は大勢の人間達に足蹴にされて泣いていた。



コハクヌシは、夢中で彼女を助けようと飛び出して・・・・・残念ながら、そのあとの記憶は全くなく、気がついたときにはここ三途の河原に横たわっていたのだった。








   --------無事だとよいが。









つらつらとそんなことを考えていると。
彼を川送りする儀式に参列していた男の中で一番年かさと見える龍神が、おや、と声を上げた。


「コハクヌシよ。そなた、命添えを連れて行くのか」

「は?」



振り向くとそこに、・・・・・まさに今しがた思いを馳せていた少女が、立っていた。

キャンディのような丸い飾りのついたゴムで髪をふたつに分けて括り、手にはひよこやうさぎの絵が描かれた灯篭船を持って。



「千尋・・・!?」



自分の名を呼んだ少年の姿を確認して、少女は大喜びで駆け寄ってきた。



「おにいちゃん! えーと・・・」

子供はちょっと考えて。



『ハク』ー!」



思い出したその名前を嬉しそうに呼んだ。











ひさかたぶりに呼ばれたその名は。
眩暈がするほど甘美だった。











が、それに酔っている場合ではない。

ここは、この世とあの世の境にある河原なのである。
そこにこの娘がいるということは。





   --------私は彼女を守ることができなかったということなのか!?





龍神として本来の力がある時であったならば、そのような間抜けなことは決してしないのにと、彼は臍(ほぞ)を噛んだ。





「今時、珍しいものよ。命添えをつけて送ってもらう者など最近はめったにないというに」

「おお、なかなかに可愛らしい娘御じゃ。よかったの、コハクヌシや」

「ち、違います! この子は、・・・たぶん手違いで、・・・私の命添えなどではありません!」



若い龍神は、無邪気にまとわりついてくる少女の肩をおろおろと抱えた。




「千尋? そなたはまだこんなところへ来てはいけないよ?」

「?」

「すぐに帰りなさい。きっとご両親も心配している」




コハクヌシは川とは反対の方角を指差して、少女に尋ねた。



「こっちの方に、白く光る道が見える?」

「しろいみち? うん、みえるよ?」



その答を聞いて、彼はほっとした。
『白い道』は、彼女の帰るべき場所へ繋がる道。
それが見えるということは、まだ彼女には生き延びる望みがあるということだ。



「よかった。ではすぐに、その道をたどって帰りなさい。」

「ハクは?」

「私は・・・・」



川辺に集まっていた男たちはそっと目を伏せた。


彼には。
コハクヌシには、『白い道』は見えてはいないのだ。

生あるものたちの住まう世界へは、・・・もはや帰ることはできないのだ。






コハクヌシは、川面に浮かべられようとしている自分の灯篭船を静かに指差した。


「私はね。あの船と一緒に『向こう』へ行かなければならないんだ」

「ひとりで?」

「うん」




とたん、少女は泣き顔になった。



「そんなの、かわいそう。ひとりなんて、ハク、かわいそう」

「・・・・千尋」

「ちーちゃん、いっしょにいってあげる」










『一緒』に・・・・・?










小さな娘の肩に添えた指先が、小刻みに震えているのが。
自分でも、わかった。






「いいでしょ?」

諦めたはず。


「ふたりだったら、さみしくないよ?」

孤独には慣れているはず。


「ちーちゃんもいく」

ひと恋しい気持ちなど。


「ね?」

もとより知らなかったのだから!


「ハク?」














一緒に、きてくれる?
































「・・・・・いけないよ」













想うことなど、知らなければ。











喉もとまでこみ上げた、言葉を。
彼は必死で飲み下した。








焦がれることもなかったのに。
















「私は、そなたを助けたかったんだよ」

「ハク・・?」

「連れて行こうと思った訳ではないんだ」

「?」

「嘘じゃない」



コハクヌシは少女が手に持つ灯篭船に目をやった。
ひよことうさぎが手をつなぎ、花畑で遊ぶ絵の描かれている手作りの灯篭船。




「この灯篭船を、私にくれないか」

「おふね?」

「千尋の船と一緒に行けば、寂しくないから」





少女はしばらく考えていたが。

すい、と少年のそばを離れると、水際で船送りの支度を調えられていた彼の灯篭船のかたわらにしゃがみこんだ。




「どうしたの、千尋?」




彼女は髪を括っていたゴム飾りをひとつ解くと、不器用な手つきで、自分の灯篭船とコハクヌシのそれとを結びつけ。




「ふたつのおふねが、はなれないようにしたの」

「・・・・うん?」



少女は、少年を振り仰いでにこりと笑った。



「おまじない」

「何の?」

「またあえますように、って」

「・・・・」

「そしたら、さびしくないでしょう?」

「!」





不覚にも。まぶたの奥が熱くなった。
ぐい、とこぶしでそれをぬぐい、コハクヌシは参列の神々に言った。




「始めてください」




彼らは再び低い声で儀式の言霊を唱えはじめ。

その中の一人が千尋の灯篭にも灯を入れて。



ふたつ連なった小さな灯かりを、川の流れに放した。







「千尋。いつかまた会えるのを楽しみにしているね」

「うん」

「さあ、お帰り。白い道が見えているうちに」

「ん」

「振り向いてはいけないよ」

「そうなの?」

「うん」



少女は龍神に手を振ると、素直にくるりと背を向けて。
彼には見えない道を、ぱたぱたと走り始めた。




そのちいさな後姿を一呼吸だけ見送って。
コハクヌシは大きく息を吐き、水面にすいと立った。


「それでは。これでおいとまを」



悲運の川の主は参列者たちに深く頭を下げ。
そしてゆっくり彼らに背を向けると、流れを下り始めた二艘の船の波あとにそって、しんしんと水の上を歩いていった。





二つの灯は、先になりあとになり。

くるくると水の面で踊るように。
並んだり重なったりこつんとぶつかったりしながら。

二つの世界を隔てる川の上を、仲良く流れてゆく。


その後影を追うように、男たちの呪の声が水面を這い。











やがて、水霞けぶる水平線の向こうに、つがいの灯篭船と若い龍神の姿は消えていった。













「やれ・・・素直に命添えを連れてゆけばよかったものを」



年老いた龍神が、ぽつりとつぶやいた。

隣の男も頷き、額に片手をあてがって、かの若い水神の影の消えた水の彼方を見晴るかした。


「あれでは・・・・情が残りすぎて、成仏できぬかもしれぬなあ」

「ややこしげな場所に迷い込まねばよいが。不憫なことよのう」



彼らは一様に顔を見合わせた。

そのような迷える魂が引き寄せられる場所というのは、そこかしこにあるものなのだ。




「あの人間の娘ものう・・・・龍にあれだけ想われてしもうては・・・・いずれ『引き寄せられ』てしまうかもしれんのう・・・」








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