鐘楼(しょうろう)流し (21)
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あのとき。 太鼓橋の上で、10頭の豚の中から両親を見つけようとした、あのとき。 最初は、ちゃんとわかっていたのだ。 どの豚が、父と母なのか。 ただ、ほんの一瞬、迷ってしまった。 その答を言っていいのかと。 自分は・・・・本当にもといた世界に帰っていいのだろうかと。 そして、ちらりと後ろに控えている龍の少年を振り返ると。 彼は静かに微笑んでいた。 そのほほえみに、別れの覚悟と分別が浮かんでいるのを感じて。 妙に悲しくなった。 ハクは。
わたしが帰っちゃっても、いいんだ? わけもわからず悔しくなって顔を上げた瞬間。 ・・・・わたしは、両親の見分けがつけられなくなっていた。 たぶん。 たぶん、あの時にはもう。 わたしは、恋する愚かな女だったんだ。
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月が沈むのが早い晩だった。 夜明けにはまだまだ間があるというのに、夜の空を照らすはずのものは、寒空の下を泣きながら急ぐ少女の姿から目をそむけるかのように、早々にその姿を山の端(は)に隠してしまった。 冷えとおる空にちらちら光り残った無数の小さな白いまたたき。 冬の星むらかと思われたそれらは、ほどなくして地に舞い降り始め。 たがいにあとさき追いあいながらはらはらと天から堕ちるそれは。 この冬最初の、雪だった。 淡雪恋雪散る華雪。 散って砕けた涙雪は氷雨(ひさめ)まじりの銀の針。 絹針よりも細くすすり泣く細雪(ささめゆき)が夜闇を裂き。 罪悪感にざっくり開いたままの少女の心の傷口を、容赦なく刺しとおす。 凍れる雪刃に貫かれる胸の痛みよりも。 皮膚を引き剥がすかのような風の冷たさよりも。 一人、寒部屋で呆然としているであろうひとの方が数倍も辛いだろうと思うと。 千尋は涙が止まらなかった。 雪色けぶる視界の先に畜舎の輪郭がぼんやり浮かんで見えるあたりまでくると、その中でうめき喚く豚たちの声がはっきりと聞き取れるようになってくる。 その騒がしさからして、どうやら、暴れわめいているのは両親だけではないらしく、他の豚たちも落ち着きを失い、一緒になって興奮状態になっているらしい。 畜舎内の阿鼻叫喚ぶりがまぶたの前にちらちらし、千尋はふらつく身体に鞭打って、みちゆきを急いだ。 「おとうさん、おかあさん、おそくなってごめ-------!」 白い息を切らせ、畜舎の扉をばんと開けたとたん・・・・・千尋はその場に立ちつくした。 ・・・・・え? な、何これ・・・?
畜舎内の豚たちは。 どれも一匹残らず両親とまったく『同じ』姿で苦しんでいたのだ。 雄豚はみな大きな腫れ物を腹部にかかえてのた打ち回っており。 雌豚はみな寝藁の上につっぷしてげぶげぶと嘔吐にむせていた。 ごしごしと目をこすってみるものの、何度見ても、その光景は変わらない。 ど、どうして・・・・・?
何が起こっているのかがわからず、動転する千尋の背後から。 聞きなれた老女の声がした。 「薬をやるんだろう? はやくおし」 振り返るとそこには、半透明にくすむ青いドレス姿の魔女が立っていた。 「銭おばあちゃん・・・!」 「ぐずぐずしてると、死んでしまうよ?」 「!!」 千尋は弾かれたように豚たちの中へ入っていったものの。 暴れ苦しむ豚たちの間で右往左往するばかりで、どうすることもできない。 「千尋ちゃん。さあ、この中から自分の親を見つけてごらん」 「お、おばあちゃん?」 「毎日情をこめて世話してたんだ。わかるだろう?」 千尋はぎくりと顔を上げた。 「・・・・まさか、『これ』、おばあちゃんの魔法なの??」 「いっとくけど、他の豚にそんな物騒な薬飲ませたら大変なことになるからね」 「お願い、意地悪しないで魔法解いて! 早くおとうさんたちにお薬あげないと!!」 取り乱す人間の子に、魔女は淡々と告げる。 「意地悪してるんじゃないよ。ちゃんと見つけられたら、あたしが妹に話をつけてあげよう」 「・・・・え?」 「両親を人間に戻すチャンスをあげる、って言ってるの」 その言葉に、千尋はごくりと息を飲んだ。 そして、一頭一頭、注意深く暴れ苦しむ豚たちを見比べ始めた。 が、どの雄豚も父明夫に見え、また、どの雌豚も母悠子に見える。 どんなに耳をこらしても彼らの鳴き声を聞き分けることはできず、豚にしがみついてその肌触りやにおいの違いを感じ取ろうとしても、区別がつかない。 泣き出したい気持ちをこらえ、豚たちの間をおろおろと歩き回るものの、気ばかりあせって、大勢いるそれらの中のどれが両親なのか、どうしてもわからない。 「あ・・・ああ、・・・・」 ここ数日、両親を見分けられなくなって困るようなことは一度もなかった。 がそれは・・・・彼らの病状が悪化して、見るからに健康体の豚たちとは違ったからだ。 両親を見分けるために、病位のみをあてにしていた自分を思い知らされ、千尋は情けなかった。 「さっさとしないと、ほら、そこ」 銭婆が指差したところで。 一頭の雄豚が断末魔の叫びを上げて倒れた。 「え・・・お、おとうさん・・っ?!」 真っ青になって駆け寄った千尋の右隣で、今度は雌豚が一頭、ぐぶり、と最期の吐瀉物を吐いて動かなくなった。 ひっ、と悲鳴を上げかけた彼女の後ろで、また一頭。そしてまた一頭。 「え・・・え・・・・っ!?」 次々に息絶えてゆく豚たちを前に、千尋は両手で顔を覆って泣き叫んだ。 「いやっ、やめてーーーーーっ!!」 魔女が、ふっ、と指を振った。 とたん、地獄図だった畜舎は嘘のように静まり返り。 はあはあと息を切らす千尋の周りで、豚たちはすやすや眠っていた。 豚たちはみな、本来の自分たちの姿にもどっており。 健康な豚たちに混じって、ひとつの柵の中に、腹に大きな腫瘍をこしらえた父明夫と、おちくぼんだ目の下に紫色のくまを作って痩せおとろえた母悠子も寝息をたてている。 「・・・・・あ・・・おとうさん・・? おかあさん・・?」 這うようにして両親の側にいざり寄り、震えながらその無事を確認した娘は、その場にくずおれた。 がっくりと両手をついた少女の傍らにそっと寄り添い、魔女は声をかけた。 「わかったかい? あんたには、もう無理なんだよ」 「・・・・・・」 「千尋ちゃん、あんたはもう純真無垢な子供じゃない。恋闇に迷う女に呪いを解く力はないよ」 「お、おばあちゃん、わたし・・っ! ハクとは、そういうのじゃな・・・!」 むきになって顔を上げた少女の唇に、老女は皺ぶいた人差し指をすっと添えた。 「熱が残ってるね」 「・・・・っ!!」 ついいましがた男から受けた想いの熱さをそのまま読み取られているようで、千尋は真っ赤になって口元を両手で覆い隠す。 「あんたたち、このままじゃいけないよ」 「・・・・・」 銭婆はすいと立ち上がり、病んだ豚の額にその手をかざした。 「・・・・・おばあちゃん・・・? 何をして・・?」 その問いに、眉一つ動かさず魔女は答えた。 「このまま苦しまずに逝かせてあげる」 「・・・えっ!」 「あきらめなさい。もとの姿に戻すことはもちろん、人間の世界に生まれ変わることも、できやしな―――――」 魔女の言葉が終わるよりさきに、千尋は全力で彼女を突き飛ばしていた。 ・・・・つもりだったのだが、彼女の姿は式を通して結んだ虚像であったため、千尋の両手は空を切り、そのままつんのめって固い地面に倒れこむ。 が、千尋はすぐに起き上がり、両親に覆いかぶさると、わが身を盾にして魔女の魔法から彼らをかばった。 「どきなさい! そんな薬草じゃ親は救えない。娘にはもう奇跡を起こす力はない。どのみち助からないんだよ!」 結果が同じなら、傷は少しでも浅い方がいい。 ぐずぐずすればするほど、苦しみが増すだけだ。 「おどき!」 銭婆の声はこれまでに聞いたこともないような厳しいものだったが。 千尋は従わなかった。 両親にすがりつき、魔女に懇願した。 「だったらわたしもいっしょに殺して!」 「・・・・・・千尋ちゃん・・・・・」 銭婆は豚にかざしていた両手を力なく落とした。 ためいきをつく老婆に、千尋はぽろぽろ泣きながら訴えた。 「おばあちゃん。わたしはおとうさんたちを見捨てるわけにはいかないの」 「・・・・・・あんたねぇ・・・・」 「おばあちゃんは、どうしておとうさんたちがここに『神隠し』されたと思う?」 「うん?」 * * * * * * * * * * * * * *
「 好 き だ 」 頭の中に、自分のうわずった醜い声ががんがんとこだまする。 唇に残る熱が、業火となって全身を灼く。 よりによって、あんな時に。
なぜ、あんなことを言ってしまったのだ。 自己嫌悪と後悔にずたずたになった心をどうすることもできないまま。 気付くと夜が明けていた。 窓の外が朱け色に染まることなく、漆黒の闇から薄墨色に、そして淡灰色からうすぼけた白けさにうつろっていったところからすると、今朝はどうやら雪催(ゆきもよい)らしい。 腕の中にだらりと皺だれた濃紺の茶羽織。 うつせみとなったそれからは、もう愛しい少女の体温も残り香も消えていた。 口づけのあとの、あの泣きそうな瞳で自分をにらみつけていた千尋の顔が眼前から離れない。 悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれない。 龍神は自分の愚かさに胸を掻き毟った。 助けを求めて縋りついた男に、好きだと言われれば。
自分が女であることを差し出すしかないではないか。 そのくらい、常識で考えればわかることだ。 それを、想いが通じたと勘違いしただなど。 言い訳にもならない。 千尋は自分を信じて助けを求めてきたのだ。 その信頼を裏切って弱みにつけこんだも同じこと。 好きでもない男に唇を汚されるのは、女としてどれほど辛く屈辱的なことだっただろう。 男を知らぬ娘にとって、あの時の自分は、どれほど恐ろしかったことだろう。 むごいことをしてしまった。
傷ついているのは、男の自分ではなく、彼女のほうだ。 ぐ、と唇を引き結んでハクは立ち上がり、窓を開けた。 とたん、びょうと音を立てて雪まじりの冷気が室内に滑り込む。 ・・・・・謝ろう。
今さら詫びても取り返しはつかないが。 何をおいても、まずそうすべきだと、ハクは思った。 自分の苦しさなど、あとまわしにすべきだと。 そう決心して、部屋を出る。 と。 「どこへ行く気だい?」 吹きさらしの階段に、青いドレスの老女が頬杖をついて座っていた。 「・・・・・銭婆様」 やっとの思いで気持ちを整理して出てきたというのに、なんとも間の悪いところで思いがけない人物に出会ってしまい、出鼻をくじかれたような気分になる龍の青年。 どうもこのところ、彼女に出会うのはこういう気まずいめぐり合わせの時が多く、―――――しかも、聞きたくもないまわりくどい説教が始まることが多いのだ―――――ハクは内心げんなりした。 「千尋ちゃんのところかい?」 「貴女に答える必要はないかと」 つい、とげのある口調になってしまうのを抑えられないのは、若さゆえの未熟さだとは思うものの。 今は愛しい娘のことだけで頭がいっぱいなのだ。 何をしようとこんなところまで式神を飛ばしてきたのかは知らないが、よけいな話はできれば後にして欲しい。 「急いでいるのです。通していただきたい」 老女は、ふん、と鼻を鳴らす。 「会っちゃくれまいよ。自分のしたこと、考えてごらん」 「・・・・・・」 だから。それは承知の上で、詫びをしたいのだ。 だいたい、なぜ、そんなことを知っているのか。 そもそも、こんな個人的なことを他人にどうこう言われたくはない。 そう声を荒げたいところをぐっと我慢している若者に。 魔女はさらに続けた。 「ハク龍、あんた・・・・あの娘の親を『餌』に使ったね?」 ハクはしばらくの間眉間に複雑な皺を寄せていたが。 ややあって、あえて抑揚を押し殺した言葉を唇にのせた。 「覗き見のような真似をなさるのは、よい趣味とは思いませんが」 重い膿(うみ)でじくじくと澱む胸を、ようようなだめて言葉を紡ぐ若者を。 老女は笑い飛ばした。 「何を言ってるんだか。見当違いもはなはだしいね」 「・・・・・・」 「ようく思い出してごらん。あんたは人としてしちゃいけないことをしたんだ」 「・・・・・・。もっと手短にお話し願えませんか」 「いくら恋に血迷ってたからって、許されないと思うよ」 結論を真っ先につきつける妹魔女と違い、彼女はいつもこんな言い回し方をする。 自分で考えてみなさいと言わんばかりなのだが、あいにく今そんな余裕などない。 おそらく、昨夜自分が千尋にしてしまったことの理不尽さを責めているのだと思うが、自身に非があることは十分わかっている。 それについての言い訳や事情説明など、彼女にしたくもないし、しなければならない理由もない。 「謝罪はするつもりです」 若者のぶすりとした返答に、魔女は首を振った。 「あんた、ほんとに何もわかってないね」 「・・・・・・」 「千尋ちゃんは、気が付いてるよ」 老女が何を言いたいのかよくわからない。 ハクはいらいらしながら銭婆の次の言葉を待った。 「あの子を『この世界』に呼びたかった気持ちは、わかるよ。でもね」 「・・・・・」 「その『おとり』に親を使う、っていうのはちょっと卑怯じゃないかい?」 「―――――!!」 とたんさっと顔色を失った龍神に、魔女は畳み掛けた。 「意識してか、無意識でやってしまったかは知らないけどね。龍ってのはいったん思いこんだら考えなしだから」 「ぜ・・・・銭婆様、それは・・・・」 魔女は、もう一度、言った。 「千尋ちゃんは、気が付いてるよ」 あのね、おばあちゃん。
わたしがいけないの。 「ここいやだ!もどろう、お父さん!」
わたし、忘れていたの。
鐘楼船に誓ったハクとの約束。 「いやだ! わたし行かないよ!」
また会おうね、って言ったのに。
わたしが行かないなんて言い出したものだから。 「なんだあ? こわがりだな千尋は」
おとうさんと
「千尋は車の中で待ってなさい」
おかあさんが
「おいで、平気だよ」
『使われ』たの。
「おいで、平気だよ」
おとうさんたちは、わたしを『おびきよせる』ために
「 お い で 」 『神隠し』にあったの。
「 お い で 」
わたしのせいなの。
「 お い で 」
おとうさんとおかあさんは
「 お い で 」
わたしの巻き添えになったの!
「・・・・・だから自分は死ぬまで親を見捨てるわけにはいかないってね」 「――――――!」 龍の若者は一言も発することができず、全身に冷汗を浮かべ。 がたがたと震えながら、その場に座り込んだ。 |