鐘楼(しょうろう)流し (23)
また同じ夢を見た、と。
そのとき龍の少年は思ったのだった。 もう逢うことはかなわないし。 逢いたいと思ってはいけないと、自分に何度も言い聞かせていた少女が。 こちらに向かって近づいてくる、夢。 一昨日は、花色の衣装で蝶のように踊りながら草原を渡ってくる夢だった。 青草を踏む素足のまぶしさに、思わず手庇(てびさし)をかざしたところで、目が覚めて。 視界に戻ったのは、染みだらけの安板で張られた、傾(かし)いだ天井。 つぎのあたった、障子紙。 昨日は、白無垢綿帽子姿で小船にゆられてやってきた。 こちら岸に助け渡していいものかと迷いつつ、そのほっそりとした手をとろうとしたところで、また、うつしよに引き戻され。 ひとり寝の冷たい布団から身を起こしながら。 こんなふうに―――――夢にまでそのまぼろしを追うほどに―――――思いつめていてはいけないと、自分を叱った。 もう神としての力などほとんどない身であるが。 万一、自分の思慕が、「向こう」の世界で生きている彼女に影響や干渉を及ぼしたりしては、取り返しのつかないことになる。 もう、断ち切らねば、と。 そう思ったはずなのに。 また、同じような『夢』を見た。 龍という生き物の愚かな執念のむなしさに、ためいきをつきながら。 これきり。
これを限りに、夢に見ることさえも、封じてしまおう。 そう決めた。 そして、最後だからと、自分に言い聞かせて。 今夜は心ゆくまで、この夢の中に身をゆだねてしまうことにしようと思った。 目をこらすと、少女は桃色の花束を抱え、物憂げに髪を風に預けている。 今宵は・・・・
ああ、両親といっしょに車に乗り合わせているのか。 なぜ、そんな不機嫌な顔をしているのだろう。 おいで、と小さく声にしてみると。 車は最初に向かっていたらしい道筋からそれ、ひとつ下の小道に入った。 もう一度呼んでみると。 車の速度がはね上がった。 父親の乱暴な運転に悲鳴を上げる少女の姿が、たいそう愛らしく、思わず声を上げて笑うと。 ぷうと膨れて、ここは嫌だ、帰る、と言い出した。 あわてて、さらに強く呼び寄せると。 反応したのは、当の娘ではなく、その両親だった。 まあいい。
親が来れば、一緒について来るだろう。 そう思って、軽い気持ちでもう一度『呼んだ』。 おいで。平気だよ。
どうせ夢の中なのだから。 ――――――――そこまでで、『夢』は途切れ。 気づくと、もう店を開く刻限に近く。 寝過ごしてしまったと、あわてて起き上がり、身支度を整える。 夢に見るのも最後と決めたのだから、ともに手を取り合うところくらいまでは楽しみたかったのに、とやや心残りに思う自分に苦笑しながら湯屋の太鼓橋に降り立つと。 そこに。
『夢』だと思っていた、いとしい少女の姿があった。 太鼓橋の欄干に身体を預け、今にも迫ろうとする夕闇ひとつてまえの空を背に振り返った彼女の姿を見た瞬間。 おのれが『してしまったこと』を悟り、血の気が引いた。 そして、無我夢中で叫んでいた。 「ここへ来てはいけない! すぐ戻れ!」
* * * * * * * * * * 「実はな、新町の『かわせみ』から使いがあってな。ちょっくら行ってこねばならんのだが、、そのう、、、セン、おまえ一緒に来てくれんかな」 兄役は、苦りきった表情で人間の小湯女に、頭を下げる。 「あの・・・?」 「ちょっと待てよ。なんでまたセンがこんな遅くにそんなトコ行かなきゃならねぇんだよ? え?」 頼まれた少女が応とも否とも答えるより先に、彼女の姉貴分が蛙に食ってかかる。 「いや、それが、その、・・・・セン、お前がちょこっと顔出してくれりゃ、ものごとが丸くおさまるというか、うまくいくというか、な、そこんとこ、わかってくれんか?」 「はい?」 「つまり、センが一番適役なんじゃ。うん」 だから何がなんだよっ、と詰め寄る狐娘をなだめなだめ、言い渋る兄役の話によると、新町の飲み屋『かわせみ』から、そちらの帳場頭殿が手に負えない状態になって困っている、たのむから迎えに来て欲しいと連絡があったらしい。 「わ、わしが行ってもだな、大人しくなどしてはくださらんのだ、ハク様は」 「はあ・・・」 「昨日もどえらい目に・・・・いやその、とにかくだな、お前が来てくれればきっと場もなごやかになるからして」 兄役のいわんとするところを察した人間の娘は、素直に頷いた。 いや、今こいつらの状態はちょっと複雑だからよけいにややこしいぞ、―――――と言っていいものかどうか、迷ったリンの目の前で。 ほっとした表情の兄役蛙にしたがい、妹分は夜の街に出て行った。 * * * * * * * * * *
目的の店へ行くには、俗に言う「道ひとつ入ったところ」を通り抜けなければならない。 薄雪の中、ぼんやりと意味深な灯かりを入れた提灯が並ぶ、石畳の狭い階段を並んで下りてゆく蛙男と人間の娘。 表通りの派手な夜の街の賑わいはなりをひそめた、人少ななその路地の両側には、のれんをまぶかにつるし、格子戸をかまえた平屋造りの建物が並んでいる。 出会い茶屋と呼ばれるそれら、―――――要は、わりない仲の男女が人目をしのんで逢引する場所が密集しているそこを、おもてを伏せて早足で降りていく少女と。 彼女を連れて、こんな界隈を二人で歩いているところを例の帳場頭に見られでもしたら、どんな誤解を受けるかと生きた心地もしない兄役蛙。 そもそも、その帳場頭本人を引き取りに行くためにこうしてやってきたわけだが、彼の脳裏には先日の蜥蜴(とかげ)よろしく問答無用で半殺しの目にあっている自分の姿がちらちらちらちらして、怖ろしくてたまらない。 「この石段をつきあたりまで下りれば『かわせみ』はすぐそこだから、ここから先はおまえ一人でゆけ」と、さきほどから何度言おうと思ったことか。 がしかし、逆に、このようなあやしげな場所に彼女を置き去りにして、万一、この娘に何かあったりでもしたら、・・・・・・それこそ、ただではすまないと思うとそれもできず。 がくがくと震えるひざをふるいたたせ、やっとの思いで『かわせみ』の前までたどりつき、がらりとその戸を開けると、店の者に向かって声を張り上げた。 「ども、油屋の者ですが! あいすいません、迎えの者を連れてきましたんで!!」 言うなり蛙は、したがえてきた小湯女をどんと店内に押し込み、 「ささ、セン、あ、あとは頼んだからなっ」 それだけ言い残すと、お役御免とばかりに一目散に坂を駆け上がり、逃げ帰っていった。 ぽつんと取り残された千尋は、仕方なく店に足を踏み入れ、その惨状に唖然とした。 そこは、夫婦者のカワウソが二人で切り盛りしている小さな店で。 テーブルだの椅子だのが散乱した狭い店内奥の薄暗いカウンターに、グラスを手にした若い男がつっぷしていた。 床には、粉々になった皿の破片にまみれた料理が散らばっており、窓にほどこされていたらしいステンドグラス風の装飾は、図柄の輪郭部分だけが残り、砕け落ちた色ガラスのかけらが窓枠下にじゃりりと小山をつくっている。 彼以外に客はなく――――――この様子では、誰もが逃げ帰ってしまうであろう――――――カウンターの中では、カワウソの夫婦が身を寄せ合って震えていた。 千尋は小さく息をつき、食べ物や割れ物で汚れた床を注意深く進み、まずは怯えきっているカワウソ夫妻に丁寧に詫びてから、カウンターに顔を埋めた青年に声をかけた。 「ハク、飲みすぎだよ? 一緒に帰ろ?」 青年はどろりと意識のよどんだ目を上げ、そこに気遣わしげに眉を寄せた少女の姿をみとめると。 気だるい仕草で額髪をかきあげながら、鬱陶しげに吐き捨てた。 「ここはそなたのような者が来るところではない。帰れ」 言うなりずるずるとスツールから崩れ落ちそうになるハクを、千尋はあわてて横から支えた。 そして、そのまま彼の腕の下にもぐりこみ、自分の肩を貸してハクをなんとか立ち上がらせる。 「ほら、わたしにつかまって。歩ける?」 「歩けない」 「だめ。戻らなきゃ」 「そなたが抱いて帰ってくれるのか」 「・・・・・・・もう。」 大きな子供のような酔っ払いのたわごとなど聞き流すことにし、千尋は店主にもう一度頭を下げた。 「ほんとにすみません。あとで油屋の者を片付けによこしますから。こわれたものは弁償しますので、まとめて請求してください」 かたわらで不愉快そうにそれを聞いていたハクは、ふん、と酒くさい息を吐いた。 「このくらい、他人の手など借りずとも――――」 いかにも投げやりな仕草で、ふっと片手を振ると。 修羅場のようだった店内は嘘のように片付いた。 「釣りはいらぬ」 そう言って、胸元に手を入れたかと思うと、ざりっ、と嫌な音を立てて何かを取り出し、鷲掴みにしたそれをカウンターの上にぐしゃりと置いた。 「ちょっ、、、と、やだ、ハク!」 代金代わりに彼が差し出したものは。 血の滴(したた)る、ひとつかみの白い鱗(うろこ)だった。 龍の鱗は薬として珍重されるし、美しいものは装飾品としても高い価値がある。 酒代どころか、店を滅茶苦茶にしてしまった代償としても十分すぎるほどであったが。 目の前で生身の龍の身体からむしり取られたそれらからは、なまぐさいにおいの血がぽたぽたとこぼれ、その赤く粘る液体が卓上からつうぅ・・っと糸を引いて床に落ちるさまに、カワウソたちは卒倒寸前だった。 「ご、ごめんなさいっ、またあらためてお詫びにきますからっ!」 とにかくこれ以上の長居はいけないと、千尋はハクを引きずるようにして表に連れ出した。 と、目の前にはのしかかるような急斜面の石段が寒空に向かって伸びており。 石畳の両側ずらりには、ももいろの薄灯かりをともした店々がいわくありげに顔を並べていて。 休息料金だの、宿泊料だのを墨書きした看板の数々を前に、千尋は目のおきどころに困ってしまう。 が、この路地を抜けなければ、湯屋には帰れない。 ハクに肩を抱かれたまま、千尋はしかたなく石段を上り始めた。 |