鐘楼(しょうろう)流し (24)
しめった細い雪をすかして、うすもやける灯かりがぽつ、ぽつと続く昇り段。 そのところどころに植え込まれている、浅緑の細柳。 雪をのせてしなるやわ枝のつらなりは、みちゆきに細い弧を投げながら、簾(すだれ)のようなおももちで路地にしだれており。 それらは、この通りをすれ違うものたちの視線があらわにぶつかり合いすぎないよう遮るのに、ちょうどよいあんばいだった。 「あの・・・、ね、ハク、苦しいんだろうけどちゃんと歩いて。ああっ、そっちはあぶな・・・」 柳枝うなだれるまにまに灯影(ほかげ)ほのめく石段を。 あぶなっかしげな足取りで一歩ずつ上ってゆく男女二人連れ。 足元おぼつかない若い男と、彼の左手で自分の肩をつかませ、自分の右手を彼の背に回して支えながら、なんとか彼の歩みを進ませようと苦心している人間の娘。 道幅はちょうどひとふたりが並んで歩くほどしかなく、そこを連れ立って歩くもの同士の間合いは、必然的にしっぽりと肩を寄せ合うくらいのほどあいとなり。 歩きながらふらりと片手を伸ばせば、居並ぶ茶屋ののれんに手が届く。 それをそのままついと押し上げれば、上がりかまち横の畳に表情の薄い老婆あたりが頭を下げて控えており、いらっしゃいまし、どこそこの部屋が空いておりますがお代は前払いでよろしく、と、口数少なく客を迎え入れて、――――――と、早い話ここはそういうところ。 つづもる淡雪のあわいにゆるるとうつむく柳の緑枝、その向こうに見え隠れする店の灯かりのくすんだ桃色。 それらは、それなりに風情のあるものではあったが。 千尋にとっては、ただただ居心地悪いことこの上なく、できればこういう、自分に不似合いな場所からは一刻も早く抜け出したかった。 「・・・・胸の傷、痛む?」 「別に」 もてあます不自然な間をなんとか埋めようと千尋が口にする言葉は、冷えた石の上に捨て落とされる投げやりな返事であっけなく切られてしまい、会話は続かない。 空回りする会話のむなしさに小さなため息をつきながら、千尋はちら、と隣の龍神を盗み見た。 鬱陶しげに額髪をかきあげるその横顔は無表情・・・というよりも、表情というものを作ることにすら疲れたといわんばかりの無気力さに覆われていて、どんよりくもった瞳にはいつもの精彩などかけらもない。 ――――――ハク、少し痩せた・・・・
すさんだ横顔には、ろくに食べもせず取り憑かれたように働き、疲労で追い込んだ体にたいして強くもないはずの酒をあおり、それでもたぶん眠れないのであろう彼のこの数日の来し方がありありと伺えた。 その原因が、まず間違いなく自分にあるとわかっているだけに、千尋にはかける言葉がない。 彼の体調を気遣う言葉を口にする資格などない。 ましてや、彼の荒れた生活ぶりをたしなめることなど、できるはずもなく。 いっそ、すべてのしがらみを捨てて彼への思慕に身を投げてしまえれば・・・と心の片隅にちらりと浮かんだ自分勝手な思いを、千尋はあわてて押し殺す。 自分は・・・本当は、幼い日、鐘楼流しの夜の事故で死んでいたはずなのだ。 あるいは、死の淵から生の世界へと送り返してくれたハクとの約束にしたがって、自分ひとりがこの不思議の世界に来るべきだったのだ。 そして、反対に父と母は。 本来なら、――――娘を失うという不幸は避けられないとしても――――年老いるまで仲睦まじく寄り添い天寿をまっとうするはずだったのだ。 彼らには、もうすでに夫婦であったことどころか人間であった記憶もないという。 あんなに仲のよかった二人の最後の夫婦の会話が、神への供物をほおぼりながらの「からし。」「ありがとう。」・・・・では、あまりにむなしい。 両親の運命を狂わせてしまったつぐないは一生かかってもしなければならないと思いつめる気持ちと、今、自分の隣でずたずたになっている龍の青年との間で、千尋は泣くこともできなかった。 と、そのとき、肩にかかっていた彼の体重が、ずるずると道端に沈み込もうとしたのが感じられ、千尋ははっと我にかえった。 「あ、、、ああっ、ハク、だめ、こんなところに座りこまないで・・・!」 あわててハクの胸の前に回り込み、倒れこんでくる彼の身体に両手を回して必死で支えようとしたが、女一人の力では限界がある。 「あの・・・すみません、誰か――――!」 助けを求めて懸命に声を上げるが、みちゆく人はみな見てみぬふりで通り過ぎてゆく。 無理もない、傍目に見ればこの自分たちの姿は、酔った男女が人目もはばからずべったり抱き合っているとしか見えないのであろう。 ――――――ど、どうしよう・・・・
と、困りきった人間の娘の頭上からくすくすと笑う声がした。 「まぁああぁぁあ、仲のよろしいこと」 千尋がハクの肩越しに顔を上げると。 見上げる石段を、腕を組んで下りてくる一組の男女。 むっちりした頬に白粉をたっぷり刷いた、小太りの女と。 口がべたっと横に広く、大きく離れた左右の目をそれぞれ別々の方向に落ち着きなくきょろきょろさせている小柄な男。 ・・・・・湯屋油屋でともに働く白拍子と蛙男だった。 往来で職場の先輩に出会ったなら、下の者からきちんと声をかけて挨拶するのが当然だが、状況が状況だけに、それどころではない。 「ああああのっ! ハクさま具合が悪くて、その・・・っ」 白拍子と蛙に事情を訴えようと身を乗り出した拍子にぐらりと体勢が崩れかけ、千尋はあわててハクの背に回した両手にめいっぱい力をこめた。 「あらあらあら。言い訳なんかしなくったって、お邪魔なんぞいたしませんってば」 おほほほほほっと口元を袖で隠して笑う女を、男があわててたしなめたところ、 「・・・・どうした」 胡散臭げに顔を上げたハクとまともに目が合ってしまい、蛙男はひいぃと震え上がった。 目元据わった鬼上司にぴょこんと頭を下げるが早いか、女の手を引き逃げるように手近な店の中に姿を消そうとしたのだが、当の上司に呼び止められた。 「アカエ。そなたらもお楽しみのところすまないが、使いを頼まれてくれ」 「・・・・は?」 ハクに小銭を握らされ、何事か言い含められた蛙は、全速力で傍らの店の暖簾をくぐり、男物の蛇の目傘を手に、取って返してきた。 「手数をかけたな」 「は、はあ」 もう行け、と目で命じられ、蛙は女を連れてまたたくまに姿を消した。 去り際、意味ありげな含み笑いでひらひらと手を振る白拍子。 おそらく明日になれば、山ほど尾ひれをつけた噂が湯屋を駆け巡るのだろう。 「あの・・・ハク・・・?」 いまだハクの腕の中に閉じ込められたままの千尋が、小さく声をかけると。 彼はおもむろに娘の体を解放し、蛙に調達させた傘を開いた。 「千尋。雪に濡れる」 柳枝をゆらすささめ雪は、いつしか重いぼたん雪にかわっていた。 ――――――あ。そうだったんだ。
まといつく冷気の中で、千尋は理解した。 ハクは寒さも濡れることもたいして苦にはならないはず。 だが、人間の千尋は違う。 ハクは千尋と連れだって歩いているときに雨や雪が降ってくると、自分の着物の袖を広げてその下に彼女をかばってやるのが常だった。 今しがたのことも、おそらく、千尋が冷たい雪に濡れないよう袖の下に包もうとしたところ、・・・・酔いで体の自由がきかず、体勢を崩して倒れそうになったのだろう。 「こちらに寄りなさい」 朽ち葉色に濡れた傘の下から、龍の青年が呼んだ。 人間の少女がおとなしくそれにしたがうと。 彼は、娘の肩を抱き寄せた。 千尋は。 逆らわなかった。 ひとつ傘にすっぽりおさまったふたりは、それ以上言葉を交わすこともなく、ほつほつ落ちる夜雪の中を寄り添って歩いてゆく。 ――――――抱かれているのは、肩なのに。
まるで心臓を握り締められているようだと、千尋は思った。 |