鐘楼(しょうろう)流し (25) 








「何ぃ? じゃなにかおまえ、セン一人にハク押し付けて、自分はとっとと帰ってきたってのか?」





帰りの遅い妹分を案じ、太鼓橋のたもとで待っていた狐娘は、頭手拭い姿で一人ひょいひょいと戻ってきた兄役蛙に食ってかかった。




「そうは言うてもな、ああいう場はああするのが一番というモノでだな・・・」

「なに言ってやがる! 人身御供じゃあるまいし、あんなトコにセンみたくおぼこいの置いてくるなんて、どうぞ食ってくださいといわんばかりじゃねぇかっ!! 何かあったらどうすんだ!?」

「ナニかあったらって、センはハク様のコレじゃからして、今更」



にぃと下品に立てたその小指をへし折ってやろうかとリンが詰め寄ったとき。




積もり始めた薄い雪じゅうたんの上を、男物の蛇の目傘がひとつ、湯屋に向かって近づいてくるのが見えた。


目をこらすと、渋茶色の傘のうしろあとには、大小二組の足跡が切々と尾を引いている。


さくり、さくりと薄雪に刻まれる歩幅の違うふたつの歩み跡。

それらは、一見しとりと添い合っているように見えながらもけして重なり合うことはなく、両者はぎりぎりに切り詰めた細い一本の境界線を保ちながら、白雪の上に濡れ色の痣(あざ)を落とす。

物言わぬ痣たちは、そのうえに降り落ちる新しい白いものたちにしんわり隠され、そして少しずつ消えてゆく。


淡い雪灯りの上にぽつぽつつらなるそれらが、一瞬、リンには涙跡のように見えて。
遅かったじゃねえかっ!・・・・と張り上げかけた声を、思わず飲み込んだ。





「・・・お、おもどりなさいませ・・・」

「うむ」





いやみの一つも言わずに頭を下げたリンに、千尋は目でごめんなさい、と謝って、そのままハクに連れられ太鼓橋を渡る。


そして上がりかまちぎわで彼の手から傘を受け取ると、それを軽く閉じてとんとんと雪を落とし、あとからついてきた兄役に、―――――すみませんが通りの店で借りたので返しておいてください、と目を伏せて頼む。



「ほい、お安い御用じゃ。ふんふん、コレは『みよしの』の傘じゃな、あそこは部屋は少々狭いが小奇麗にしとるし、いい酒を出すでなぁ。気の利いた小物も揃っとるし、ぐふぐふふふっ、・・・・、ぐぐぅぇえええっっ!?!」



にやつく出刃亀蛙の横っ腹に、がつんと一発入れてそ知らぬ顔を決め込むリン。

女顔負けに口の軽いこの男が考えていることくらいお見通しなのだ。



うずくまる兄役蛙を無視して顔を上げると、妹分の人間の娘が、足取りあやうい帳場頭のあとをあわてて追うところだった。

その細い背中を呼び止めかね、リンはなんともすわりの悪い気分で二人を見送った。






* * * * * * * * * *










ええと・・・・、・・・どうしよう・・・・・









湯屋エレベーター裏手の古階段。

それをみしみし言わせながらやっとの思いでのぼりつめ、粗末な板敷き廊下つきあたりの部屋の前まで来て、―――――千尋はちらりと隣の龍神の顔を盗み見た。


うつむく彼の顔は、古ぼけた裸電球の灯かりに影どられ、老人のようにやつがれて見える。




「あの、ハク、・・・・着いたよ」

「・・・・・・。」




扉を開ければ、そこはハクの私室である。

常識的に言って、深夜若い娘が酔った男の部屋へのこのこ上がりこむというのはあまり褒められた話ではないが、まだ酔いの抜けていない、足元もあぶないハクをこのまま置いてゆくわけにはいかない。

泥酔した彼が、ひとりできちんと床(とこ)をととのえて眠るとは考えにくいし、それどころか、今ここで自分が立ち去れば、彼は部屋にも入らずこの場で朝まで潰れてしまうかもしれない。


畳の部屋で、布団の上にきちんと休ませてやらなければ、体に障る。







が、取っ手に手をかける段になって、千尋は迷った。












目の前の粗末な木扉一枚向こうは。



ほんの数日前、彼からほとばしるような激しい口づけを受けた場所だった。






呼吸もままならないほど熱く求められ、重く渦なす底なしの淵へ力づくで引きずり込まれてゆくかのようなあの濃厚な感覚は、まだ全身に生々しく残っている。


気にするなというのは無理な話。






―――と、ためらう娘の頭上から、きわめて無表情な男の声が落とされた。






「閨(ねや)まで連れて行ってくれるのではないのか」

「・・・・えっ・・」





それまで黙っていたハクの口から唐突に吐かれた言葉に、千尋は面食らう。





「あ、うん、、、、その、、、」

「千尋」




とまどいを隠し切れない人間の娘に、ハクはまっすぐ向き直った。




「私の褥(しとね)につきあう気があるのか、と聞いている」

「・・・・・え、えっ、・・・?」



ハクがぐらりと体勢を変えた。

目をまんまるにしている千尋の背を扉に押し付け、両腕で彼女を囲い込む。




「あ、あのっ!!、ハ・・・・」




千尋はおろおろと目を上げたが、裸電球の灯かりを背にした彼の顔はちょうど影に入っていて、その表情はわからない。



「そのつもりがないなら、ここで帰れ」

「・・・・で、でも・・・・」

「中途半端に気をもたすような真似をするな、と言っているんだ」

「そんなっ、気をもたすだなんて、わたしそんなつもり――――――!」





ない、と言いかけて。


千尋は口をつぐんだ。



彼の言うとおりだ。
返す言葉など、ない。





千尋ががっくりとうなだれると。

ハクは扉から片手を離し、腕の中の娘が通りぬけられる分だけの空間をあけてやった。




「帰りなさい」

「・・・・」

「私の身を案じて来てくれたことには礼を言う」





千尋はうつむいたままハクの袖の中から出る。







これは、彼のぎりぎりの誠意だ。

酔い崩れてはいても男、そのつもりになれば、娘一人強引に部屋に連れ込むくらいたやすいはず。

帰れ、という言葉にこめられたハクの気持ちを考えれば、これ以上踏み込むわけにはいかない。





「あの・・・ちゃんとお布団敷いて寝てね?」






返事はなかった。





千尋はしょんぼりと彼に背を向け、古階段を降り始める。
後に残したハクのことが気がかりでたまらなかったが、振り向く勇気などとてもなく。


塗装の剥げた手すりに引きずられるようにしてのろのろと足を進めた。








    ―――――これから。これからどうなるんだろう、わたしたち。






踊り場を曲がって、ハクの視界にはもう入らないであろうところまで来て立ち止まり、千尋はぐすんと鼻を鳴らした。




    ―――――どうしたらいいんだろう。






こみ上げてくるのは行き場のないやるせなさばかりで、前向きな明るい展望など、何一つ持てなかった。




明かり取りを兼ねた壊れかけの窓から、ひうひうと悲鳴のような細い風音と冷や雪が吹き込んでくる。


今にも外れそうな安ガラスをきしきし言わせながら窓を閉め、金具を下ろす。

かちゃん・・・と冷えた音が、薄暗い回廊の空気をしんからふるわせた。


凍えたガラス越しに、見るともなく外に目をやると。
いつの間にかすっかり雪化粧をすませた菜園の向こうに、もっすりと重たげな雪屋根をかかえた畜舎が見えた。



そこに横たわる、また一つのつらい現実。






    ―――――ハクに見放されたら。お父さんたち生きていけない。






帰れ、と突き放されたときの彼の声が、頭の中をこだまする。


そもそも、両親が今まで『屠殺』も『処分』もされず生きながらえてきたのは、帳場頭である彼の好意的な配慮があったからに他ならない。


つかずはなれずの、友人というには親密な、恋人というには淡い関係を、崩してはいけなかったのだ。

いっときの感情に流されて、自分からその境界を踏み越え、そして彼を傷つけてしまったことを、千尋は悔やんでも悔やみきれなかった。




そして。




数日前だまし取るようにしてハクの部屋から持ち帰った薬草は、当然、日を追うごとに確実に減っている。


あれがなくなったらと思うと、もうどうしていいかわからない。






と、そのとき。




どさり、と、なにかが床に倒れる鈍い音が階上から響いた。






    ―――――ハク!?







夢中で階段を駆け上った千尋が見たものは。




血まみれの胸を押さえて床に倒れ伏した、ハクの姿だった。

















♪この壁紙はさまよりいただきました。♪