鐘楼(しょうろう)流し (26)
「ハク!? どうしてこんな!」 駆け寄る人間の娘の声に、ハクは薄く目を開けた。 「・・・なぜ戻ってきた」 その顔面は蒼白で、胸元には血が滲み、朱染めになった水干を押さえる指の間からはぼたぼたと鮮血があふれている。 問いに答える間ももどかしく、千尋はハクを助け起こした。 「ああ・・・うろこ剥いだりするから・・・・!」 「大事ない」 「なに言ってるの! こんなに血出てるのに!」 うかつだった、とハクは内心舌打ちした。 龍はもともと丈夫で自然治癒能力の高い生き物だ。 病気もめったにしないし、怪我をしてもその快復はいたって早い。 鱗をはがされる、というのは人間で言えば皮膚を剥かれるようなものというか、生爪をはがされるようなものではあるが、たかがあの程度の量、どうということはないと高をくくっていた。 がしかし、今夜は少々勝手が違った。 酒のため体内を巡る血の勢いが激しくなっていたところに、酔った勢いにまかせ、龍の爪で手加減なしにおのれの体を抉(えぐ)ってしまった。 それが普段の何倍もの量の出血を招き、精神を集中させて止血に意識を注ごうと思うのだが、酔いのためにそれも思うようにならず、流血が止まらない。 仕方なく、術で目くらましをかけてごまかしていたのだが、千尋の姿が見えなくなったところで気を抜いて、術を解いてしまった。 「はやく手当てしないと、・・・・・っっ!?」 なかば強引にハクを部屋に引っぱりこみ、戸口で明かりをつけたところで千尋は絶句した。 室内は目を覆いたくなるほどに、荒れていた。 台所の奥の襖(ふすま)は開いたままで、その向こうの畳の間にだらしなく敷きっぱなしになっている皺だらけの寝具が丸見えだった。 そのまわりに、脱いだなりたたみもしていない衣服が取り散らかされており。 そこかしこに散らばっている酒器にはどれも中途半端に飲み残しがあって、見るからにべたついている。 腐敗臭に近いかすかな異臭に気付いた千尋がそのにおいの元を目で探ると。 台所の流しに、ほとんど手もつけられていない食膳が乱雑に投げ出されており、変色した料理の残骸がずるずると崩れかけていた。 ・・・・これがあの几帳面な龍の青年のすまいだろうかと、千尋は目を疑った。 悲しかった。 「ハク、ちょっと待ってね、少し片付けるから」 気を取り直し、千尋は動き出す。 このままでは足の踏み場もなく、手当てどころではない。 彼女は大急ぎで汚れ物をまとめ、布団をわさわさとふるってからきちんと敷きなおし、そこにハクを座らせる。 「ええと、薬箱は・・・・」 ものをしまえそうなところというと、この部屋内にはひとつきりある押入れしかない。 果たしてそこには思ったとおり、ほこりをかぶった赤十字印の木箱があるにはあったが、その中身はというと怖ろしくお粗末なものだった。 一般的な常備薬といえるようなものはほとんど入っておらず、なんども洗って再利用していると思われる古びた包帯と、漢方薬らしきひからびた木の枝のようなものが少々、かろうじて消毒薬はあるものの、滅菌ガーゼだの化膿止めだの、それから二日酔いに効きそうな内服薬だののたぐいは何ひとつなかった。 とりあえずは消毒と止血をしなくてはならない。 布団の上で投げやりに片膝を立てたハクの前に座り、千尋は彼の衣服を脱がせ始めた。 従業員たちの仕事着は湯屋お仕着せの水干で、むろん、ハクもそれを身につけている。 たいていの従業員たちは、動きやすさ優先で、その水干の下には肌着を兼ねた襟なしの筒袖を一枚着るだけという簡単な着方をしていた。 が、ハクは首まわりが水干の襟元からだらしなくはだけて見えるのが嫌いで、水干の下に濃紺の単(ひとえ)を下重ねとしてきちんと着込み、さらにその中に肌着として襟付き仕立ての白衣も重ねている。 もちろん、それらは自前である。 安物の水干ではあるが、かっちりとした印象を与えるのは、そいういうところに気を配っているからであろう。 ちなみにリンも、今は帳場見習いということで白い水干姿だが、下働きではないのだから身だしなみにも気を使うようにというハクからの指示で、一応襟付きの下衣くらいは着るようにしている。 筒袖や襦袢などの下着類は皆自腹で用意するものだが、年若い小湯女らには腹を冷やさぬようにと、腹掛けなるものも支給される。 はじめ何も知らなかった千尋は、素肌に腹掛け一枚その上に直接水干、という着方をして、皆に笑われた。 水干の肩や脇の切れ目から肌が丸見えで、色香を売り物にする大湯女でさえそんなみっともないことはしないと言われたが、身一つで不思議の世界に迷い込んだ子供のこと、下着一枚買う持ち合わせもない。 見かねたリンが、しばらくの間自分の筒袖を貸してやっていたものだった。 もっとも、腹掛けというのは本来幼い子供の下着であり、小湯女といえど多少なりとも色気づきはじめる年頃になると、そんな野暮ったいもの着られるものかとばかりに打ち捨てられ、せいぜい真夏の湯あがり着がわりにされるのが落ちなのだが、千尋はいまだに律儀にそれを身に着けている。 たよりない布一枚ではあるが、あるのとないのとでは―――――ささやかながらも女らしいかたちになってゆく体の線、それを目立たせたくない彼女にとっては―――――大違いであるからだ。 ・・・まあ、従業員たちの衣服事情というのはそんなところであるが。 なんにせよ、無表情に座ったまま自分では結び紐一本解こうとはしないハクの着物を脱がすのは、骨が折れた。 水干、下重ね、肌着、と一枚ずつ衣を解いてゆくたび、そこにあらわれる血だまりは色濃くなってゆく。 特に肌着は血糊でべっとりと体にへばり付いていて、下手に無理をすると傷ついた皮膚まで一緒に剥いでしまいそうで、千尋は細心の注意を払い、泣きたくなるのをがまんしながらやっとの思いで彼の上半身からすべての着物を取り除いた。 「こんなになってるのに・・・どうしていままでだまってたの」 目の前のハクの体には手のひらふたつ分ほどの大きさの、無残な傷口がべろりと口を開けている。 千尋は懐から手ぬぐいを取り出し、それに水を含ませて患部の汚れを清めた。 平瓶詰めの消毒薬の蓋を開け、中の薬液に浸されている晒し布をピンセットでつまんで傷口にあてがい、テープで留める。 「動かないでね」 幸い、出血はおさまってきたようなので、あとはこの消毒布が動かないよう、包帯で固定すれば応急処置は終わる。 状態がもっと酷ければ、釜爺の応援を頼もうと考えていたが、とりあえずこのくらいなら自分でもなんとかなりそうだ。 千尋は包帯をひと巻き手に取り、それを彼の体に添わせて慎重に巻き始めた。 * * * * * * * * *
龍の青年の体に、娘の細い指でそろそろと包帯が巻かれてゆく。 ぎゅ、と唇を引き結んで手当てを続ける千尋の顔を、ハクはなるべく見ないようにしていた。 「きつすぎない?」 「・・・・・・」 返事がないのを気にして、千尋は顔を上げた。 「釜爺さん呼ぶ?」 ハクは黙っていた。 千尋はうつむいて、また作業を再開する。 「わたしなんかに、返事したく・・・ないよね」 寂しそうにまつげを伏せる彼女の様子を可哀想には思ったが。 それを思いやる言葉を掛けてやることが、ハクにはできなかった。 上半身裸で布団の上に座りこんだ自分の前に膝をつき、たんねんに包帯をころがしてゆく千尋のやわい指先の感触が、傷の痛みよりも甘く彼の胸を疼(うず)かせる。 千尋が、す、と両腕をハクの体に回した。 包帯を彼の背中に回すためだ。 包帯を握った片手をハクの左脇から通し、背部でそれを反対側から回した手で受け取って、また胸の前までころころと移動させる。 そして、前を巻き終わったらまた背中に。 それを何度も繰り返すわけだが、一見細身に見えて実はがっちりと筋肉のついた彼の体に小柄な千尋が腕を回すには、まるでハクに抱きつくかのような体勢をとらなければならない。 そのたび必然的に、彼女はその顔を裸同然のハクの胸にうずめるような格好となり。 互いになんとも気まずかった。 千尋の指がくるくる動くたびに、その手の中の包帯の巻きが減ってゆく。 あれがすべてなくなったら。
千尋はこの部屋から出て行く。 だんだん残り少なく、小さくなってゆく白い布片を。 ハクは複雑な思いで眺めていた。 窓の外に目をやると、雪はまだほとほとと降り続いている。 静かだった。 外界の音も色もすべて厚くふりつむ真綿色のものたちに包まれ、時が通り過ぎてゆく感覚もしだいに薄れていく。 彼の口元で肩先で千尋の結い上げ髪がゆれる。 目を閉じると、すぐ間近に感じる少女のかすかな吐息と体温が、現実感と非現実感との境界を浮遊した。 白い雪に覆われたこの世界に自分たちふたりきりしか存在しないかのような錯覚に、彼は酔った。 「―――――終わったよ」 ・・・・・え?
はっと目を開けると、千尋の手の中の白い包帯がなくなっていた。 ・・・・・ああ。『終わった』のか。
傷部の脇あたりで、銀色の爪のついた留め具が光っている。 つんと鼻をつく消毒液のにおいが、龍神に嗅覚というものを思い出させた。 「包帯ゆるみそうなところ、ある?」 ハクは力なく首を振った。 『終わった』んだ。
「他に痛いところない?」 再び、ハクは首を横に。 終わった。
「お水飲む? 汲んでこようか?」 みたび、同じ動作を繰り返した龍神の前で。 千尋は小さく息をついて立ち上がった。 「・・・・帰るね」 終 わ ――――――
そのとき。 「千尋」 千尋が部屋に入ってから初めて、彼が口を開いた。 「行かないでくれ」
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