鐘楼(しょうろう)流し (27) 














抱きしめられたのかと、思った。















寝室をあとにしようと戸口に手をかけたところで。
背中越しにかけられた思いも寄らないことばに、千尋は一瞬呼吸が止まった。







「・・・・・行かないでくれ」





腕づくで引き止められたわけではない。いや、指一本触れられてもいない。

が、細髪のしんまで縛られているように、身体がぴくりとも動かない。
まばたきの仕方すら、思い出せない。




「千尋」




ごく短いハクのことのはが。
あやしげな術言よりも、益荒男(ますらお)の力よりも、千尋を固くとらえて放さない。







振り向いてはいけないと、頭のどこかで、自分が叫んでいる。



傷の手当もすませたし、寝床もきちんと整えた。
自分のするべきことは終わったのだから、立ち去るべきだと。



なのに。







「・・・ハク?」






からだ半分だけ、ほんとに少しだけ、後ろを見返ると――――そこに、うつむいたままの龍の青年がいた。













--------ああ。やっぱり振り向くんじゃなかった。












打ちひしがれたその姿を見てしまえば、捨て置けるはずもない。
千尋はおずおずと彼のかたわらに膝をついた。





「あの・・・ハク・・・、」




どうことばをかけたものか心定まらないまま、かがみこんで様子を伺うと。
その千尋の眼前に、ハクは白く整ったおもてをす、と上げた。


顔に息がかかるほどの至近距離で二人の視線がいきなりぶつかる。


あわてて千尋が身体を引こうとすると、ハクはとても悲しそうな顔をした。
深い沼底に薄墨を溶いたような瞳の色にとらわれて、千尋はまた動けなくなる。



身長差の関係で、頭ひとつ分ほど上から見下ろされることが常であるハクの顔。
それが、今は逆にちょうど自分の胸の前にあって、鉛色のくすみをたたえた瞳でこちらをじっと見あげている。
慣れない角度でせつなく見つめられ、千尋は胸がつまった。




「そばにいておくれ」




振り絞る声に滲むかすかな震えが、千尋の心をも震わせる。


さらに、素肌に粗末な包帯が巻かれているだけという目の前の彼の姿が、若い娘の困惑に拍車をかけていた。


むろん湯屋という場所で働いているのだから、男の裸を見慣れていないとは言わない。
が、仕事で彼らの世話をするのとこれとでは状況が違いすぎる。


いつもならゆったりとした清潔な衣服に覆われている龍の青年の身体。
それがあらわな肩脱ぎにされ、かすかに汗ばむ男の肌がむき出しになっている。

その生身の皮膚から身のうちの情炎がじりじりと滲み出し、あたりの空気を悩ましくゆらめかせているような錯覚にあてられて、千尋は眩暈をおこしそうだった。






「私はどうしても、・・・そなたでなければ、駄目だ」





囁かれる言葉は、千尋を半ば苛(さいな)み、半ば夢見心地にする。

けしてひとつに溶けあうことのない二色(ふたいろ)の感情の波に揺さぶられ、千々に乱れる気持ちの持ってゆきどころが見つからない。


そのまま心ごと圧しつぶされてしまいそうな胸苦しさに耐え切れず、千尋はぐっと目を閉じて必死でそれをやりすごそうとした―――――のだが、それはある意味大きな間違いだった。



うかつにも、彼女は自分の取った行動が、どれほどあやうく、男の誤解を招きやすいものなのかということを失念していた。



熱い愛の言葉の前に、はっきりとした拒絶の意も示さず、だまって瞼を閉じる。
伏せられた睫毛にやどる震えは、『同意』とも、いや、ややもすれば『誘い』と受け取られても仕方がないものだ。




彼女はすでに数日前、『それ』を学んだはずだったのに。
 しかもこの場所で。
   この男の前で。









千尋が自身のおろかさに思い至ったときには、すでに遅く。











ほっとしたようなハクの指が頬に添えられ。
その唇が近づいてくるのが感じられた。














・・・・拒めなかった。









* * * * * * *









決して強引な行為ではなかった。

うつむいたままの千尋の唇を下からすくいとめるように、ハクはおのれのそれをそっと重ね合わせた。

唇をあわせたまま、拒絶されないことを慎重に確認してから、彼女の背に手を回す。

固く身をこわばらせている娘の唇を、力づくで割るような真似はしない。
その可憐な形をたしかめるかのように、やわらかな輪郭をしっとりとたどりながら、何度も何度も遠慮がちに彼女の許しを請う。


繰り返される甘い懇願にとうとう千尋が折れ、その求めに応じると、―――――龍の若者はそれに狂おしくすがりついた。

そして続く崩れ落ちるような抱擁。


それは、獰猛な雄の熱おもむくままの叫びというよりは、あわれな瀕死の獣の悲鳴のようで、千尋はその腕を振り払うことができなかった。





「大事、・・・・・から、・・・・」


息をつぐ合い間ごとに、ハクが、切れ切れに何か言っているのがわかる。
が、抱きしめられる腕の強さと、畳み掛けられる口づけの熱に気おされて、うまく聞き取れない。


「・・え・・?・・・・なに・・・?・・・」


聞き返そうとするのだが、そのたびにまた、くちびるを塞がれてしまい、呼吸も思うようにできない。




「大事にするから、―――――」



彼はそこで言い留めて、再び千尋のくちびると心を甘い渦の中に引きずり込む。




「・・ハ・・・・、・・・・ぅ、・・」



頭がぼぉっとして、ハクが言い差した言葉の意味がよく理解できないまま、息苦しさに耐えかねて彼にしがみつくと、そのままゆっくりと布団の上に倒された。





「―――――っ!!」





彼の手が粗末な桃色水干の腰紐にかかったのがわかったとき。
さすがに、千尋ははっと我にかえった。



「待って! 待ってハク!」



千尋の懸命な声に、ハクは彼女の衣服にかけていた手を止める。



「私はそなたがいとしくてたまらない」

「で、でも、わたし・・・っ」

「もう、気が狂いそうだ




言うなり彼は、しがみつくように千尋の細い体を腕の中に抱えこんだ。

折り重なる体にかかる重みががくんと増し、瞬間千尋は窒息するかと思った。
苦しくて体勢を変えようとしたが、それすら強く阻まれ、体をねじることもできない。



「私の気持ちはわかってくれるね?」

「ハク、あの、・・・っ、あのね、、、」



ほんのひと呼吸の間すら離れるのは怖ろしくてたまらないとでも言うように、ハクは腕の中に閉じ込めた娘の髪に、頬に、着物の上に、口づけの嵐を落とす。




「ハ――――」

「逃げないで」




おびえにも似た彼の性急な行為に身をさらしたまま身動きひとつできず、千尋は小さな悲鳴を上げたが、ハクは力をゆるめてはくれない。



「千尋、」




懇願するような声とともに、ハクの指が千尋の水干の襟留めに伸びた。




「乱暴にはしない」





その言葉に。
むしろ千尋は凍りついた。




背中にきしむ皺だらけの敷布の感触が、突如妙に生々しく千尋の意識にまとわりつき。

肌を紙やすりでざらりと傷つけられるのにも似たその感覚が、自分たちのこれからを暗示しているようで、千尋は無性に怖ろしくなった。


そして、互いになにひとつ解決もしていなければ、わかりあえているともいえないこの状況で、ただ場の勢いに流されるようにしてからだの関係を結ぶなどということがあっていいのかと、娘としての本能が激しく警鐘を鳴らす。



唇を求めてふたたび寄せられた美しい顔を両手で押しのけ、千尋は彼の腕の中から抜け出そうと、必死でもがいた。




「や・・! 放して!」

「千尋、・・・」





娘の本気の抵抗を前に、瞬間かすかにひるんだ龍神ではあるが。
いったんじわりと熱色に染まってしまった若い龍の心と体は、それまで抑えていたものが深かった分、容易には鎮まらない。


むろん、誓って、愛する娘に獣まがいな真似をしたいわけではない。
そもそも、自分が千尋を想うのと同じだけ、彼女も自分を想ってくれているのだなどと思い上がってもいない。

自分を受け入れる準備が整っていないことも見ればわかる。


だが、・・・先刻、細い両の腕(かいな)をこの身体にまわし、丹念に手傷をいたわってくれたあのやわらな指の甘さとうるんだ瞳とが、情愛に飢えていた身体にすぎるほどに沁み。

理性(こころ)が情(こころ)にのみこまれ、押し流されてうまく止められないのだ。


今この瞬間も、乱暴はしないなどと言っておきながら、腕力にものを言わせ愛しい娘を押し篭めていることをたまらなく恥に思う気持ちと、このまま彼女を手放してしまえば、二度とこの腕の中には戻ってこないのではないかという恐怖とに、心がひきむしられて、身動きが取れない。

せめて、この想いが真実まごころの愛情であることだけでも伝えねばと、龍の若者は気ばかり焦るのだったが。


まるで苦し紛れ、とでもいうような迷いに満ちた抱擁を、千尋は思いっきり突き放した。




「だめだったら!!」





ぶん、と風を切る音がして。
千尋の平手がハクの頬を打った。





「―――――っ!」




一瞬顔色を失った龍の青年。
その口元がぶるぶると震えた。





「・・・・帰して」





青ざめた千尋は、ハクの顔を見ることさえ避けるかのように両手で顔を覆った。





「・・・こんなの、いや」





細い指の間からぽたぽたと涙があふれて、敷布を濡らす。
男の寝具の上に広がる乱れ髪は、触れられることをかたくなに拒んでいた。





「そう・・、・・か」





ハクの言葉と瞳から。
すべての感情と体温がひといきに抜け落ちた。





「わかった」







若い龍神のその整いすぎた面立ちに浮かんだのは。






「よく、わかった」







何の希望もない、投げやりな自嘲だった。









「私と寝るのは、そんなに嫌か」








氷のように言い捨てるなり。

ハクは千尋の体を強引に寝具の中に押さえ込み、驚きに目を見開いた娘の細い首筋におのれの唇を押し当てると、強く長く吸った。








「抗いたければ抗えばいい――――!」















♪この壁紙はさまよりいただきました。♪