鐘楼(しょうろう)流し (28)
「や・・、痛、・・・・っ、、!」 首筋を食いちぎられるかと思われるほどの痛みとともに。 髪でも着物でも隠せない場所に無理やり真紅の所有の痣(あざ)を残され、千尋の頭の中は真っ白になる。 が、龍神は混乱する人間の娘の着物に容赦なく手をかけた。 安水干の腰紐はあっけなく引きほどかれ、もみあう二人の背後に投げ捨てられる。 「ハク・・!? やだ、どうしてこんなこと――――」 乱れた上着の襟あわせを胸の前で掻き合わせ、脱がされまいと必死で体を丸める千尋。 が、そのためかえって背や足まわりは無防備となり、男の手は難なく娘の袴の結い紐に届く。 ぷつっと音を立ててそれがちぎれ、袴は一気に彼女の身体から奪い取られた。 「―――っ!!」 暴れたはずみに、肌着として着込んでいた、裾よけを兼ねた短丈仕立ての筒袖の膝もとが割れ、肉の薄い足があらわになる。 そのやわらかな腿にうっとりと男の手が這った。 「いやぁあっ!」 世界のすべてがひっくり返ったようなこの現実に、千尋の心は追いつけない。 哀れな捨て犬のように愛を請うていた先ほどまでの彼とは、明らかに違う。 いったい何がどうなったのか。 今の自分の状況が信じられないし、理解もできない。 目の前にいる男は、本当に、自分が心ひそかに慕っていた青年なのか。 さらに下着の奥へと差し入れられようとした手をはねのけ、千尋は寝具の中からころがり出た。 が、荒れた四畳半の室内には逃げ場も隠れる場所もない。 彼女がゆきづまった先は氷雨(ひさめ)打つ冷たい窓辺だった。 追い詰められたそこで、千尋の指にごとりとあたったものがあった。 息を切らせ、視線を落としたそこには。 蕨(わらび)に似た薬草の生い茂る、例の鉢があった。 その毒々しい緑色に千尋ははっとする。 異常なまでに青々と隆盛を誇るその薬草と、頬をこわばらせた人間の娘の顔を交互に眺め、ハクは何の抑揚もない声で、こう言った。 「―――――もう『それ』は要らないのか?」 * * * * * * * * * * * *
そのひとことで。 千尋はいっさいの抵抗をやめた。 かたくなな両の手をぶるぶると握り締め、体の脇に落とす。 そして、震えながら目を閉じた。 「・・・・・それでいい」 ひたひたと近づいてくる足音を他人事のように聞きながら。 自業自得だと。 千尋は自分に言い聞かせた。 そもそも彼の純粋な愛情を『取引』とすりかえたのは自分のほうだ。 当初の気持ちはともかくとして、結果的に、薬草の代償として自らを差し出すような形を取ってしまった以上、いつこんなことが起こっても不思議はなかったのだ。 どんなに手荒に扱われても文句は言えない。 ハクの気持ちを土足で踏みにじるような真似をしておいて、彼にだけ『いい人』の領域に踏みとどまっていて欲しいだなどと勝手なことを言う資格はない。 ぜんぶ、―――――わたしのせいだもの。
青ざめた娘の耳元に龍の青年が顔を近づける。 びくりと震えた細い肩から、色あせた桃色の着物が落とされた。 何度も繕った縫い跡やつぎあてがそこここにある着古した筒袖がみじめで、千尋は身をすくめた。 身を覆うものが薄くなってゆく心細さと、粗末な下着を羞じる気持ちと。 その両方に懸命に耐えていた千尋の肩口に、押し殺した重い吐息がひとつと、そして。 「どうせ―――」 低いうめき声のようなささやきが、落とされた。 「どうせそなたは私のことを、『こういう』男だと、思っているのだろう?」 ・・・・・・・え?
千尋は耳を疑った。 思わず目を開けると、間近に美しい青年の彫刻のような固い顔があった。 「・・・・? ハク、何言って・・・」 「女の弱みに乗じて脅して意のままにする、獣以下の男だと」 「あ、あの、、・・・」 「もとより私はそなたたち一家の運命を狂わせた『疫病神』だ。恨んでいるのだろう」 「!」 違う、と叫ぼうとした唇は、ことばを生む前にふさがれた。 「あ・・っ、ハク、そんな、、わたし、そんな、、、っ!」 「もう、いい――――!」 もう、いい。
なにもかも、もう。 まだ何をか言わんとする人間の娘の身体を引き寄せ、うら冷めたくちづけで封じ込めながら。 ハクは自分自身を嘲り、呪い、罵った。 所詮。最初からかなわぬ恋だったのだ。
どんなに焦がれても 無駄なことだったのだ。 川を亡くした崩れ龍の分際で、人の娘に懸想するなど―――――! そのすすり泣きのような口づけを。 千尋はただ、受け止めることしかできなかった。 ハクは、静かに口づけを深めてゆく。 うずみ雪にぽとりと落ちた水が、しわりとその冷たいものの中に沁み入っていくように。 呼吸ひとつ荒げることなくその悲しい行為は続けられ、それにあいまって、彼の右手が千尋の筒袖の胸元を割り、少しずつ肌の中にしのび入ってくる。 このままこの身で彼を受け入れれば、この傷ついたひとを少しでも慰められるのか。 それとも、ハクはこんなことするひとじゃない、と拒むべきなのか。 千尋には判断がつかなかった。 ハクの心を傷つけてしまったその半分でも、自分の身体が傷つくことで償えるのなら、自由にされてかまわない。 でも。 『こういう』男だとか。『疫病神』だとか。 そんな哀しいことを彼に言わせてしまうことになるなどとは思ってもみなかった。 ―――――どうしよう・・・・? どうすればいい・・・? ハクの行為は淡々と進む。 心迷うまま、どうすることもできない千尋の気持ちはどんどん置き去りにされてゆく。 耐えられなくなって、ハク、と小さく呼んでみたが、返事はなかった。 それでも、なけなしの気力をふりしぼって、千尋は言った。 「ハクは、わるくないからね」 千尋の細い首もとに顔をうずめていた彼の背中が、瞬間ぴくりと震えたが。 やはり返事はなく、その華奢な首筋が乱雑に吸われ、情事の刻印がひとつ増やされただけだった。 心の結びつきなどもはや望んではいないと言わんばかりのその行いが哀れで、そして申し訳なくて。 首筋にちくりと走った痛みに顔をしかめながらも、千尋は彼のなすがままになるしかなかった。 こんなときたとえば、男心の機微を知り尽くした大湯女のお姐さまがたなら、凍りついた彼の心をうまく解きほぐせるような、気の利いた言葉をかけられるのかもしれない。 あるいは、おのれの身をもって、冷えた彼の身体を蕩かし一時でもすべての苦しさを忘れさせてやることができるのかもしれない。 自分が精神的にも肉体的にも男というものを知らぬ処女であることを、このときほどもどかしく思ったことはなかった。 がしかし、そんな千尋の胸のうちとは無関係に、ことは進む。 ほどなく、娘の肌の上をさまよっていた男の手は、筒袖の中に着込まれている腹かけの存在に気付いた。 彼女のような年頃の娘が身に着けるには少々子供じみていると言えなくもない下着。 その無粋な肩紐を解こうとハクの指が動いたとき、こつん、と彼の指先にあたったものがあった。 ・・・・・?
娘の衣服の中で遭遇した、その硬質な感触を怪訝に思い、ハクは体を離し両手で千尋の筒袖の前をぐいと開いた。 「ゃ・・・・・・っ!!」 さすがに小さく声を上げた彼女の首もとに、ハクにとって、あきらかに見覚えのあるものがあった。 「千尋・・・・それは・・・・・」 千尋ははっとして身を翻し、『それ』を両手で抱きしめるようにして隠す。 「見せなさい」 千尋はハクに背を向けたまま、ぶんぶんと首を振った。 が。 「見せなさい。それは何?」 重ねて命じられ、千尋はあきらめる。 ハクの手が千尋の背から筒袖を引き落とすと、女のまろやかさと少女の清潔感があいまったあやうい曲線が、男の目の前にさらされて、ほろりと震えた。 こちらを向かせると、その華奢な胸元には、粗末な麻糸を通した首飾りのようなものがかけられていた。 麻糸の先につるされていたものは、・・・小ぶりな七宝焼きの髪留め。 ちょうど親指と人差し指を丸めて作ったくらいの大きさの円に若緑色の豆科の植物のつるがくるりと巻いていて、そこに愛らしい桃色の花がいくつか散らしてある意匠の―――――そう、いつぞや、出張先の町の小物屋で目に留まり千尋に贈ろうとハクが買い求めた、あの髪留めだった。 それを手にとってしげしげと眺めてから、ハクは千尋の顔に視線をもどした。 「これは・・・・以前私がそなたに贈った・・・・」 千尋は黙って目を伏せた。 ハクの脳裏に、この髪留めを彼女に贈った夜のことが蘇る。 あの時千尋は、湯屋の半地下室で蜥蜴(とかげ)にあやうく乱暴されるところだったのだ。 そこを助けたどさくさにまぎれ、普段は贈り物など決して受け取らない彼女の手になかばむりやり握らせた、あのときの髪留めだ。 「・・・お守りにしていたの」 「お守り?」 「うん」 うながすと千尋は、ぽつぽつときまりわるげに話し出した。 「だってあの・・・・ハクにもらったものだから」 「・・・・・」 「ハクに・・・かみさまにもらったものだから、ずっとお守りに・・・」 彼女がこれを髪に飾っているところは、湯屋で一度も見かけなかった。 てっきり、受け取らされたものの身に着ける気になれず、打ち捨てているのだろうと思っていた。 が、まさか、肌身離さずこうして大切に持っていたとは。 「私にもらったもの、だから?」 「うん」 千尋は素直に頷く。 ああ、私は。
ハクは、自分自身が無性に情けなくなった。 私は何をしているのだろう・・・・・!
自分が今この娘にしようとしていることは。 あの蜥蜴(とかげ)と同じ、いやそれ以下だ。 自分からの贈り物を、神から与えられた守りだと信じて身につけているこの乙女に、何ということをしているのか。 目の前には、裸同然の姿で、身をすくめている千尋。 ハクは震えながら彼女の体を衣服で覆ってやった。 「ハク?」 「・・・すまなかった」 ほとんど腹掛け一枚に近い姿だった千尋に、順に着物を着せてやる。 「どうかしていた・・・私は・・・」 頭を下げようと畳に手をついたハクを、千尋が止めた。 「あの・・・、わたしなら、だいじょうぶだから、・・・」 「・・・・」 「ハクは、ええと、、、、」 そこで千尋は、はたと思いついたように言葉を足した。 「ハク、今夜は飲みすぎ」 「・・・え?」 「あまり強くないのに、正気なくなるまで飲むなんて身体に毒だよ?」 突然何を言い出すのかと、狐につままれたような顔の青年に、人間の娘はさらに続けた。 「朝になったら、ハク、きっと全部忘れてるだろうけど、『かわせみ』のご夫婦にはちゃんとお詫びしないといけないからね?」 思わぬ助け舟を出され、ハクの方が面食らう。 酒の上での戯れ事であったことにして、水に流そうと。 けなげにも、被害者である彼女のほうが、そう言うのだ。 「・・・・千尋・・・」 「わたしは平気。お仕事中に酔ったお客さんにからまれるくらい、慣れてるし。気にしないで」 「しかし、」 「わたし、帰るね」 千尋はぎこちなく微笑して立ち上がる。 「ちゃんとお布団で、寝てね?」 呆然と座り込んだままのハクに、さきほどいったん部屋を出て行ったときと同じことばを残して彼女は立ち去った。 残した言葉は同じだが。 きちんと着物を整えた千尋の首筋には、おのれのみにくい劣情の名残が真っ赤な痣(あざ)となっていくつも残っており。 ハクは後悔に胸を掻きむしった。 その夜は一睡もできず。 翌日、午後から出張で遠出する予定が入っていたのを前倒しし、ハクは早朝まだ暗いうちに、誰とも顔を合わさぬまま湯屋を出立した。 せいぜい3日で済むはずの用事を、のろのろと1週間かけて彼が戻ってきたとき。 湯屋で働く従業員たちの中に、千尋の姿はなかった。
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