鐘楼(しょうろう)流し (29)
ハクが湯屋に戻ったのは時間帯で言えば一番店が混み合うころあい、しかも年の瀬近いこともあってどこもかしこも慌しく、特に裏方はひっくり返っている最中だった。 それを見越して、正面玄関からではなく裏口から目立たぬように戻ったハク。 忙しい最中とはいえ、彼に気付いた従業員たちは取りあえず走り回る足を止め、頭くらいはちゃんと下げるところを、リンだけはやけにつんつんと態度が悪かった。 「アカエ、そこは来週松飾りできるように場所空けとけって言ったろうがっ! ああ、おもどりなさいませハク様、――――っと、こらっそれは正月用の椀だから今出すんじゃないっ!」 「リン」 「はいハク様、何ですかあっっ? フナ、松の間の追加人数は確認したか!? え? まだだって? 何やってんだまったく! 膳の段取りがたたねえだろ!」 ばたばたと陣頭指揮を取る彼女には、取り付く島もない。 間の悪いことに湯婆婆も留守にしているようで、そのしわよせも彼女にきているらしい。 連絡もせず予定外の長留守をしてしまった分、自分の代行をつとめてくれたリンには負担がかかってしまったことだろうと思い、その労をねぎらいたかったのだが、どうやら今はそれどころではなさそうだ。 この場の采配はこのまま彼女に任せ、後でゆっくり話をしたほうがよいだろうと判断し、ハクはとりあえず湯屋内の見回りをすることにした。 湯殿で客の世話をする小湯女、湯の順番待ちがてら雪見酒などしている客の相手をつとめる白拍子、座敷と調理場をぱたぱた行き来する女中や蛙男たち、指名を受けていそいそとこしらえを凝らす大湯女たち。 湯屋は本日も盛況で、特に問題もなさそうである。 店を巡回しつつ、ハクは懐の中に手をやった。 そこには、町で土産として買い求めてきたふたつの包みがあった。 ひとつは労をかけたリンへ。 紅や手鏡などの化粧小物を入れる巾着袋で、金縁取りの朱牡丹が黒繻子地に大胆に配された粋な表地に、渋い小豆色の花ちりめんで裏打ちがされたもの。 ・・・・そしてもうひとつは千尋へ。 ただこちらは、買い求めはしたものの、本人に手渡すことができるかどうか、実はまだ自信がないのであるが。 これらはいずれも出張の帰りに、以前千尋への髪留めを買った例の小物店へ立ち寄り、自分は女物はよくわからないからと、店の売り子に見繕ってもらったものだ。 売り子は、あの時の大正女学生風なセキレイの娘ではなかったので、それとなく尋ねると、彼女はつい最近店を辞めたという。 歌うたいを本業にでもしたのだろうかと話を向けると、座敷に上がることもやめたらしく、最近ぷっつり姿を見なくなった、とのこと。 もしやあの夜、自分の伽の相手をしなかったことをとがめられ、この町に居られないような目にあったのではと心配になったが、どうやらそういうことでもないらしい。 それ以上あまり深くは聞けなかったが、いいなづけとおぼしき似合いの相手もいたことだし、嫁いだのかもしれないなどと思いつつ、ハクは女二人への買い物をして戻ってきたのだった。 ―――――それはそうと。 ハクは湯屋内をくまなく歩き回りながら、ちらちらと千尋の姿を探した。 が、湯殿にも、座敷にも、従業員たちのたまり場にも、どこにもいない。 彼女の気配は、感じる。 ここからさほど遠くない場所にいるはずなので、精神を集中させてその気配をたどれば居場所をつきとめることは難しいことでもないが、顔を合わさないようあえて『避けられて』いるのかもしれないと思うと、それもためらわれ、そのままずるずると終業時刻を迎えてしまった。 閉店後の雑務ともろもろの報告などのため、帳場でリンと膝をつきあわせ、ひととおりの業務が終わったところで、ハクは懐の包みを彼女に差し出した。 「・・・・何のつもりですかぁ?」 仏頂面をいまだ崩そうとしないリンに、ハクはごく率直な態度で頭を下げる。 「留守中手間をかけさせて悪かった。これは町で今流行っている柄だと聞いて買い求めてきたのだが、そなたの好みに合わなかっただろうか」 「・・・・・好みどうこうの問題じゃあなくてっ!」 リンは声を荒げた。 「一週間もなしのつぶてってどういうワケか聞かせてもらえますかね?! 明日になっても連絡なかったら若いのを使いに出そうかと思ってたんですよっ?」 「すまなかった」 「・・・・・・センがどれだけ心配してたか」 龍の帳場頭の肩がびくりと震えた。 「その・・・・センはもう、休んでいるだろうか」 「・・・・・・」 「すまないが、リン、これを」 ハクはリンへのそれよりもひとまわり小さな包みを懐から取り出し、彼女の前に置く。 「これを、センに渡しておいてもらえないか」 「はぁああああ?!」 「私からだと言うと受け取ってくれないかもしれないから、そのあたりはうまく言い繕っておいてほしい」 リンのこめかみにみるみる青筋が立ち、その口元に狐の牙がぎりりと伸びた。 続いて現れた稲穂色の尻尾と耳を隠そうともせず、彼女はまくし立てた。 「あのなぁっ、何訳わかんねぇこと言ってやがるっ!! お前らいったいどうなってんだ!?」 「・・・・・」 「やっと帰ってきたってのに見舞いどころか顔も見せねえってどういう―――――」 「リン!」 リンが最後まで言い終わるより前に。 帳場の机をなぎ倒し、血相を変えてハクは彼女に詰め寄った。 そのあまりの形相に、思わず言いかけた言葉を飲み込んでしまう、狐娘。 「リン、そなた今何と言った?」 「へ? な、何って、」 「見舞い、と言わなかったか」 「は、はあ、、、」 * * * * * * * * * *
千尋は、湯屋菜園をつっきったところにある、病人用の小屋に寝かされていた。 ハクが出張に出てからほどなく、座敷で倒れたのだ。 腰高に積もった雪をがしがしと踏み分け、口元を引き攣らせて菜園を横切ってゆく青年上司の後についてゆきながら。 まったくワケわかんねぇ、とリンはひとりごちた。 少し前から、この龍と妹分の様子は明らかにおかしかった。 人間の子のほうは妙に彼に気を使いすぎているようなふしがあったし、男のほうにいたっては仕事はしすぎるわ酒は過ぎるわでどう見ても普通ではなかった。 そして酒場で潰れた龍神を迎えに行った妹分は、彼と意味深なひとつ傘で帰ってはきたものの、その雰囲気はどことなくぎこちなく不自然で。 さらに、その夜更け、人目を忍んで彼の部屋から戻ってきた彼女のありさまに、リンは唖然とした。 少女っぽさのぬけきらないその細い首まわりにてんてんと残る、いいわけのしようもない大小の赤い痣(あざ)。 俗に言う仲直りなんたらをしてきた結果かとも思ったが、それにしてはあまりに元気がない。 一応は湯屋公認のような二人だから、彼らの間にあったことを根ほり葉ほり問いただすような野暮な真似はできないとはいえ、無理強いされたとかとんでもない悪趣味なことでもさせられたとかだったらただではおかないと、遠まわしに探りを入れてみたが、彼女は口を割らなかった。 そのままではどうにも人目を引きすぎるので、リンは彼女の首にさらしを巻いてやり、誰かに見咎められたら、喉を痛めて湿布していることにしな、と言ってやったのだった。 朝になったらあの男の首根っことっ捕まえてぎちぎちにシメ上げてやろうと思っていた矢先、ものの見事に姿をくらまされ、そのまま一週間音沙汰なし。 ただの商談ではなくて本当は『危ない』仕事ではなかったのか、と思いつめた目で尋ねる妹分の枕元で、そんなことはないと何度言ってやったことか。 状況がわからなかったのは自分も同じで、むしろ、「何かあいつから聞いてないか?」とこっちが聞きたかったくらいだったが、青い顔で床に伏せる彼女によけいな心配をさせるわけにもいかず。 ・・・・実をいえば最悪の事態も考えていたのだ。 商談というのは表向きで、湯婆婆から命にかかわるような役目を命じられて出かけたのではないかと。 だとすれば、あの二人の間の不自然さも、普段は冷静な帳場頭が荒れまくっていたことも、なんとなく説明がつくような気もしたし、姿を見せなくなった前の夜、センがとんでもない姿にされて戻ってきたのも、もしや今生の別れとばかりに『度がすぎた』のかも、とよけいなところにまで気を回してみたり。 あと一日彼の戻りが遅かったら誰かを探索に出そうと思っていた、というのは嘘でも誇張でもなかった。 そうやってこっちがさんざ頭を悩ましていたところに、土産なんぞ買ってふらりと帰ってきて。 取るものも取り合えず、恋人の病床にかけつけるのならともかく、当の彼女が寝込んでいることすら、こちらから言い出すまで―――――腐っても崩れても龍神のはしくれのくせして――――素で気付いていなかった上に、こともあろうか彼女への土産を自分にことづけようとするなど。 リンは、積雪をものともせず鬼のような形相で病人小屋へと猛進するハク――――まあ、水の神なのだから、雪や雨などなんの障害にもならないのだろうが――――の後ろをついて走りながら、やっぱわかんねぇ、と首をひねった。 「ハク様」 「なんだ」 振り返りもせず、声だけで答える上司に、リンは言った。 「先行っててもらえますかー? オレ、もう、息切れて、―――――」 「わかった」 思いっきり最小限の返事で走り去る青年の後姿を見送りながら。 こういうコトはやっぱ、当人同士でないとどうしようもねえし。
リンはひとつ息を吐いて、おもむろに来た道を引き返した。 * * * * * * * * * *
菜園の一番隅、畜舎よりもさらに一段下にある、湯捨て用の下水口のそばに、病人小屋は建てられていた。 どう見ても掘っ立て小屋同然、一応土壁が塗られてはいるが、あちこち剥げてほころび、芯にしている竹の骨組みがところどころむき出しになっている。 窓もなく、出入り口には目隠し程度に筵(むしろ)が吊るされているだけで、とても病人を療養させるための場所とは思えない。 まさに客あきないをする場からの『隔離』だけを目的にしているといわんばかりの『病室』。 廃屋といってもいいような寒々しい小屋の前に立ち、あらためてその粗悪さを目の当たりにして、ハクはぐっと奥歯を噛み締めた。 意を決して筵(むしろ)をくぐると、真っ暗な室内で、病む者がかすかに身じろぎをした布ずれの音と、闇にのみこまれてしまいそうな、かぼそい声がした。 「・・・・リンさん?」 返事をしかね、思わず立ちすくんだハクだったが、続く彼女の問いかけにぐっと胸がつまった。 「リンさん、ハク帰ってきた?」 こみあげるものを抑え、彼女の傍らに膝をつく。 そして黙って枕もとの行灯(あんどん)に灯を入れた。 火種をおおう格子和紙をすかして、ぽおっとぬくみ色の広がった室内。 そのやわい明るみの中心に、美しい龍の青年の姿が浮かび上がった。 「――――ハク!?」 龍は夜目がきくから暗闇でも平気だが、人の娘はそうはいかない。 灯かりに照らし出された姿を見てはじめて、来訪者が彼その人だったと知り、千尋はがばりと身を起こす。 「ああ、無理をしてはいけないよ」 急に起き上がろうとしてふらついた千尋の背を支え、彼女のそのなりをまのあたりにして、ハクはまた胸が痛んだ。 千尋が身につけていたのは、いつもの見慣れた桃色水干ではなく、着古した大湯女の襦袢(じゅばん)だった。 客の前に出て働くわけではないから、仕事着である水干は店に返却させ、代わりに古着などを寝巻きがわりに与えるのは、この『病室』に入る者みなにひとしくなされることである。 が、扇情的で派手な柄ゆきの、それでいて安っぽいぺらぺらの色褪せた肌襦袢一枚を細い身体にまとい、薄暗い部屋で粗末な布団をあてがわれた千尋の姿は、―――――まるで、場末の安宿で客を取らされる遊び女(あそびめ)のようで。 はした金で身を売る貧しい娘のような哀れな身なりが、病みやつれた青白いおもてに妙に似合っていて、痛々しかった。 「ハク? どうしてこんなに遅かったの? 危ない目にあった? 怪我でもしたの? もしかして、うろこ剥いだ傷が悪くなって動けなくなっていたの?」 すがりつきざま矢継ぎ早にたたみかける少女の背をなでてやりながら、ハクはゆっくり噛んで含めるように話し聞かせる。 「心配させてすまなかった。商談がこじれて、なかなかまとまらなくてね。怪我などしていないし、胸の傷ももう平気だから」 「ほんとに? 嘘ついてない?」 「うん。本当だよ」 青年は、自分の着物の胸を開いて見せた。 先日の傷はもうかさぶたひとつなくつるりと完治している。 むろん、他に生傷などない。 それを確認して、やっと千尋は落ち着きを取り戻す。 |