鐘楼(しょうろう)流し (31)
「 たすけて ――――― 」
こころもとなげな乳房の間に揺れる、銀の鎖につながれた、豆科の花の髪飾り。 女の武器、というには清潔すぎる青い裸体。 「ち、ちひ―――」 折れそうな腰に、固く巻かれた赤い腰巻。 身を護る最後の下着一枚というあわれな姿で、娘は龍の若者の夜着にすがりついた。 「お願、 ―――――」 彼の背後には、戸も襖(ふすま)も開け放したなり飛び出してきたままの部屋。 室内の一番奥までいとも簡単に見通せる家具の少ないその部屋の窓際に、蕨(わらび)のような形の薬草が、鮮やかすぎるほどの緑色に生い茂っている。 千尋はぐっと目を閉じ、腰巻のくくり紐に手をかけた。 「や、やめなさい、千尋!!」 とっさに押しとどめようとする、若い龍。 彼の動揺を推し量る余裕もない、人間の娘。 「いけない! そなたはこんなことをする娘ではない!」 なおも捨て身の姿勢を崩そうとしない千尋は、懸命にいさめるハクの声に耳を貸そうともしない。 「千尋っ!」 「ハ、ぅうう、うーーーっ、、!」 早口で叫ぶその声は、もう言葉としてまとまる力を持たず、嗚咽とも悲鳴ともつかない。 ハクの袖の中で、千尋はぶんぶんと首を振り暴れ続けた。 「千尋! 気持ちをしずめ・・・!」 ・・・・・ぶつっ・・・・・!! 千尋の胸元で鈍い音がして。
銀の鎖が切れた。 「・・・つ・・・っ・・」 豆科の花をかたどった髪飾りは、勢いあまって弾け飛び、ハクの顔をかすめて切った。 はっと我に返る千尋の目の前で、ハクの頬から血が一筋、つうと垂れる。 「あ・・あ・・ごめんなさい、・・・ハク・・・」 ハクは床に転がった守りの飾りを拾い上げる。 「ご、ごめんなさ・・・痛い、でしょう・・、あの、・・・・」 ハクは固く唇を引き結んだまま、だまって髪飾りに付着した血の汚れを袖でぬぐいとり、それを千尋の胸にかけなおす。 みずから男の前に晒してしまった娘の肌にあたる、ひんやりとした銀の感触。 ・・・羞じらいという乙女の逃げ場に身を隠すことなど、今さら許されもしないことはわかっている。 が、目を上げてまともにハクの顔を見ることができず、千尋は、守りの髪飾りを抱きしめるように両手を前で掻き合わせ、身体をちぢこめてうつむいた。 娘のあしもとに波打つ薄ぺらい襦袢に、小刻みに震える若者の指が伸ばされる。 「千尋。頼むから―――――」 ハクはそれで千尋の体を包みこむなり、けばけばしい花柄ごと細い体を抱きしめた。 千尋の肩口に顔をうずめたハクの頬からぽたぽたと鮮血が落ち、彼女の襦袢の白襟に花びらのような紅い染みが広がる。 「頼むから、私にその身を切り売りするような真似はしないでおくれ」 その声は、涙声に近かった。 「ごめんよ千尋、そなたをここまで追いつめたのは、私だ」 「でも、でも、わたし、―――――」 「もう何も言わなくていい。・・・ご両親を助けてあげる」 千尋は瞳を見開いた。 「ほ・・・ほんとに・・・?」 「うん。助けてあげる」 「お父さんと、お母さんを・・・?」 「うん」 礼を言わなくては、と千尋が唇を動かしたのとほぼ同時に。 龍神はさっと手のひらを彼女の額にかざした。 とたん、彼の腕の中の娘はすぅっと意識を失う。 「『準備』をしなくてはならないから。少し眠っていておくれ」 * * * * * * * * * *
意識が戻ったとき、千尋はもとの病人小屋に寝かされていた。 「気ぃ、ついたか?」 声をかけたのは、枕元にあぐらをかいた板長蛙。 その隣には、リンが座っている。 「あ・・・板長さん?・・リンさん・・・?・・・」 「わしら、ハク様に呼ばれてな。手伝いに来たんや」 「・・・ハクは?」 「おやじさんたちのとこ。センが目さましたら連れてきてくれって」 答えたリンのかたわらには、ひとかかえほどの大きさの桃色の風呂敷包みが置かれている。 「リンさん、それ、なあに?」 「ん? あ、ああ、まあその、・・・」 もごもごと口を濁すリンの前に、板長蛙が割って入った。 「セン。ハク様が待ってなさる。起きられるか?」 「え・・、あ、はい」 「ほな、わしにおぶされ。あまり時間ないしな」 状況がよく飲み込めないまま、牛蛙の大きな背中におぶわれると、リンが上から毛布でねんねこのようにくるんでくれた。 病人小屋の建てられている窪(くぼ)地から、雪のつづもる石段を十数段のぼりつめると、畜舎がある。 千尋を背負った板長蛙は、滑らないよう慎重に、その石段を一歩ずつのぼってゆく。 風呂敷包みを抱えた狐娘が、そのあとに続いた。 雪は、やんでいた。 「セン」 「はい、板長さん?」 「お前の親、このまま死んでしもたら、どないなるか知っとるか?」 「・・・・え・・・・・・?」 道々牛蛙は、背中の千尋に、神に食されて死んだ豚と、そうでない豚との行く末を、ぽつぽつと語って聞かせた。 でも、自分の両親はハクが助けてくれると約束した、と千尋が言うと。 蛙は、そうか、とだけ答えた。 ほどなく畜舎に着く。 中に入ると、昭夫と悠子は病みやつれた姿で、それでもすやすやと眠っていた。 柵のかたわらに、ハクが立っている。 身なり整え、髪ひとすじの乱れもない、凛としたたたずまい。 神気、とでも言うのだろうか。 近寄りがたいほどに清澄な空気を全身にぴんと張り巡らせた若い龍神は、さきほどの混乱の中の若者とはまるで別人のようで、千尋は板長蛙の背から降りたなり、声もかけられずその場に立ちすくんでしまう。 千尋たちの姿をみとめ、彼はゆっくりとそちらに向き直る。 その頬の傷は、もうほとんど消えかかっていた。 千尋の襦袢の襟についた血の染みも、見ると消えていた。 「気分は? 千尋」 「あ・・・、うん、大丈夫。あの、お母さんたちは・・・?」 「薬草で眠っている」 手招かれて、千尋はおずおずとハクの前に進む。 「約束だからね。ご両親を人間の世界に帰してあげる」 その声は、天上の神からの神聖なお告げのようにも聞こえて、千尋は神妙にうなずく。 「でも、二人だけだ。そなたは一緒に行けない。いいね?」 人間の娘は、再び、深くうなずいた。 「では、お別れをしなさい。あまり時間は取れないよ」 うながされ、千尋は両親のもとに一歩ずつ歩み寄る。 二頭の豚は、一見何の苦痛も感じずにすこやかに眠っているように見える。 が、そばに寄ってみると、その呼吸は浅く、心臓の鼓動は不規則で、しかも徐々に弱まっているのがわかる。 もうこのまま、自力で目を覚ますのは二度とないであろうことは、千尋にも感じ取れた。 湯屋のごみ穴の底で蠢いていた黒い影たち。 板長からさきほど聞かされた、不本意な死を遂げた豚たちのなれのはてが目の前にちらちらするのを、千尋は懸命に振り払った。 |