鐘楼(しょうろう)流し (32)
夜霧が水平線に重くたれこめるように。 『別れ』の時が、千尋とそのふたおやを音もなくおしつつんでいた。 「お父さん、お母さん、ごめんね。こんな思いさせて、ごめんね」 肋骨の浮き出た老豚たちの腹に顔をうずめ、千尋は泣いた。 がさがさに荒れた紙やすりのような豚の皮膚が、ざりりと娘の頬を擦った。 両親と過ごした幼いころの日々が、走馬灯のように脳裏を駆け抜ける。 幼稚園に入園して初めての誕生日に、両親にデパートで買ってもらった、白いコットンワンピース。 「鐘楼流し」のお祭りの日に着せてくれる、という約束を指折り数えて待ち。 その当日、母悠子は、千尋の髪を小さなツインテールに結い、キャンディのような赤くて丸い飾りのついたゴムで飾ってくれた。 当時園で流行っていたポニーテールに結いたいとごねた千尋の髪はまだ少々短く、ツインテールは苦肉の策だったのだが、その髪型は幼い娘によく似合い、ノースリーブの白いワンピース姿の彼女が歩くと、それに合わせてツインテールはウサギの耳のようにぴょこぴょこ弾んだ。 幼稚園で作った灯篭船を、ことのほか誉めてくれたのは、父昭夫。 台座になる小振りな木船の上に直方体に組み立てた和紙が立てかけられ、そこに、園児に絵を描かせた鐘楼船。 千尋はそれに、得意のうさぎだのひよこだのチューリップだのを元気一杯に描いた。 鐘楼流しの祭りでの事故は、その直後のことだったが、九死に一生を得た彼女が病院で意識を取り戻したとき、二人は泣いて喜んでいた。 幼い千尋は、自分がこんな痛い思いをしているのに、どうして両親は嬉し泣きなどしているのかと不思議に思ったものだった。 そんな両親のもとで平凡に、ごく普通に愛されて、やがて幼な子は少女になる。 多少わがままに育てられたきらいもなきにしもあらず・・・父の転勤にともない、引越し・転校することに最後までむくれていた千尋。 あの日、自分は一度も両親に笑顔を見せなかった。 そして、そのまま――――――――両親との平和な思い出はぷっつりと途絶える。 どうしてひとは。
「最後のとき」に「最高の自分」でいられないことが、多いのだろう。 「おいしい!千尋、すっごくおいしいよ」 「・・・いらないっ!!」 あのふてくされた顔が。 両親に見せた最後の自分だった。 あれが最後だと知っていたら。 もっと。 もっと――――――― 「・・・・千尋」 遠慮がちに肩に触れられて。 千尋は我に返った。 「ごめん千尋。もう時間がない」 はっとして両親の脈を確かめると。 それはもう、今にも途切れてしまいそうな、細い細いものになっていた。 このまま命絶えれば彼らがどうなるのかは、つい先ほど、板長蛙から聞かされた。 よろよろと立ち上がった千尋を、リンと板長が両側から支える。 「あ・・・リンさん?・・・板長さん・・・?」 そのまま彼らが、自分を畜舎の外に連れ出そうとしているのに気づき、千尋は声を上げた。 「待って! わたし、最後までお父さんたちのそばにいる!」 「・・・・」 「放して! ねえ、リンさん、板長さん!」 二人は固い顔のまま、人間の娘の叫びを黙殺する。 引きずるようにして、千尋を畜舎から連れ出し、扉を閉めた。 「どういうこと!? どうして出ないといけないの!?」 千尋がなおも暴れた拍子に、リンが腕にかけていた風呂敷包みが地面に落ち、結び目がばらりと解けた。 あっ、と狐娘が声を上げるより早く、千尋はその中身を確認し、顔色を失う。 桃色の風呂敷の中に包まれていたのは。 死者を送る、二艘の灯篭船だった。
「え・・・まさか・・・・?」 千尋は唇の色を失い、がたがたと震え始めた。 そのとき。 畜舎から豚の短い悲鳴が聞こえた。 「センは見るな!」 牛蛙の叫びを振り切って、千尋が畜舎に駆け込むと。 首元から一筋の血を垂らし、息絶えて横たわる昭夫と。 鎌首をもたげた純白の龍の牙に **************************
――――もう他に、方法はなかった。 龍は自らの牙にかかってこときれた悠子を、敷き藁の上に静かに降ろす。 表情をなくして立ちつくす人間の娘と目が合った白龍のまつげにやどる、あきらめの色。 薬毒におかされた豚を客の神々に供するわけにはいかない。 恨霊となり湯屋の地下深くに封じ込められるという最悪の最期を避け、彼らの魂を人の世に逃してやるために。 自分ができることは『これ』しかなかった。 できる限り苦しませないよう、確実に急所を狙った。 眠ったまま延髄をひと突きにされた昭夫は、そのまま即死。 だが、その気配に気づいて目を覚ました悠子は、悲鳴を上げて逃げようとした。 ろくに自由のきかない体でもがき逃れようとしたところを間髪入れず歯牙にかけた、その瞬間を。 千尋にまともに見られてしまった。 血で汚れた、純白の龍の口元。 その穢れた姿のまま、龍は、涙を流すことすら忘れて凍りついた人の子を見やる。 蛙をなぶり殺しにせんとする沼の蛇か、 彼女の目に映る自分は、餌に食らいつくあさましい獣そのものであろう。 龍神の足元に転がる、二頭の豚の死体。 みずからのすべてを犠牲にしようとしてまでの結果が、『これ』だったのだ。 色香で男をたぶらかす売女まがいのことをしてまでの結果が、『これ』だったのだ。 懸命にかばい続け、守り続けてきた大事な両親を食い殺した崩れ神を。 彼女は死ぬまで許すまい。 それでも。 しかたなかった。 だが。 やらねばならぬことは、まだ残っている。
「殺す」だけでは、彼らを人の生の 私は。
千尋のふたおやを、食わねばならない。 神への供物としてその身を食らわれなければ、二人は畜生としての囚われの身から逃れることはできないのだ。 腐っても落ちぶれても、「神」と名のつくものに。 もとはといえば、この親子の運命を狂わせたのは、自分。 その責を負うのは、当然なのだ。 とはいえ、さすがに千尋本人を前にして、死んだ豚の皮を裂き、その肉をむさぼることはためらわれ。 しばらく迷ったのち、・・・・白龍は桃色の舌で、彼らの傷口をから滴る血を静かに舐め取った。 口の中にざらつく鉄臭さをこらえ、龍はその赤くなまぐさい液体を何度も胃の中に納める。 ましろな鱗を赤黒い血で汚しながら生贄をほふる龍神の姿は、悲しく。 それは、贄をあさる惨酷な神というよりは―――――息絶えた仔をいとしんで、その傷を舐めてやるけものの親のようで。 千尋は、またたきもせず彼らを見つめていた。 |