鐘楼(しょうろう)流し (4)
従業員部屋の通し廊下を渡り抜け、きしむ裏戸をおしあけて湯屋のおもてに。 夕べの雨を全部吸いあげたかのように青く晴れた空の下、濡れ残ったしずくが朱塗りの欄干に光る太鼓橋の一歩手前。 そこまで来たとき、千尋はもじもじと連れの龍の青年に切り出した。 「待たせてばかりで悪いんだけど、あの、」 若い二人連れを包むのは、出かけるにはおあつらえむきの風をふくんだあたたかな陽光。 見下ろすのは、ゆったり流れる白い雲。 「ごめんなさい。早起きして先にすましとけばよかったんだけど・・・」 遠慮がちに見上げる少女の瞳。 察して微笑む龍の青年。 「ああ。つきあうよ。一緒に行こう」 若者の快い返事に少し顔を明るくした少女は、ありがとう、と、小走りに駆け出した。 彼女の目指すのは、両親のいる家畜舎。 豚となってしまった彼らの世話が、千尋の朝夕の日課だった。 畜舎や菜園のある区画と、湯屋とは、常に花盛りの植え込みで隔てられている。 雨上がりのほどよい湿りが、あおあおと生い茂る枝葉の潤色をつややかに誘い出し、朝の清潔感を引き立てており。 そのみずみずしい緑葉の中、色とりどりの花々が、昨夜の落とし露のきらめきをまとってこぼれんばかりに咲き競っていた。 この美しい花廻廊は湯屋を飾る花を育てていると同時に、一種の『においよけ』でもある。 衛生管理にはうるさい経営者の方針で、家畜たちは常に清潔に飼育されてはいるが、畜臭を全くなくすことなどもとより不可能なこと。 その臭いや気配が客相手の商売をあきなう空間に届くのは、困る。 そこで、湯屋と畜舎とを隔てる位置に香りのつよい花をたわわに咲かせてその匂いを隠すのである。 木蓮(もくれん)、梔子(くちなし) 、沈丁花(じんちょうげ)。 風向きによって湯屋が畜舎の風下になる時でも、花々の香りが動物の生活臭やその糞を肥料としている菜園の臭いを消してくれるし、家畜の世話を済ませた従業員が湯屋に戻るときも、このむせるような花いきれの中を抜けるうち、その移り香がしっとりと着物に染み込んで、客に不快な思いをさせる心配がなくなるわけだ。 そこを目指してぱたぱたと駆けてゆこうとした少女の足が。 背後から掛けられた龍神の声に、ぴたりと止まった。 「具合が悪いのはお父さん? それともお母さん?」 ぴくりと固く立ち止まったまま、千尋はおそるおそる顔だけを声のした方へ向ける。 そして、しばらく唇を震わせていたが、やっとの思いで掠れた言葉をそこにのせた。 「・・・・そんなこと・・・ないよ。ふたりとも、元気」 口元だけに必死で笑みを浮かべようとするその顔は不自然に歪み、かえって泣き顔のように見えた。 ハクはぐい、と歩みを進めると、動けないままの少女の両肩をつかんだ。 「心配しないで。病なら『処分』しなければとか、そういうつもりで言ったんじゃない」 「・・・・・」 「そなたに嘘などつかないよ」 それでも答えられずにいる小柄な想い人の瞳が、焦点を定めきれず空をさまよう。 両手の中の細い体が小刻みに震えているのがそのまま伝わってきて、彼は悲しかった。 「釜爺も心配していた。今月の給料はほとんど薬代に消えただろう?」 「・・・・・あ・・・・!」 帳場を預かるこの青年に、こういう方面でのごまかしは通用しない。 千尋は諦めた。 「お、・・・・お父さんが・・・・」 「うん」 心配していたとおりだと、ハクは思った。 従業員たちは薬のたぐいが必要になると、大抵、釜爺にそれを頼みにゆく。 ボイラー室の主は、彼らの症状や要望を聞いて、適切な薬を調合して持たせてやる。 気のいい蜘蛛の老人は、いっさい手間賃など要求しないが、原料となる薬草類はあくまでも湯屋のものである。 そのため、処方した薬の種類や量を帳場に報告することになっていて、その薬代は月々の給金から各自引き落とされる決まりだった。 「どうして最初に私に相談しない?」 「・・・・・・・・・・」 「お父さんは、どんな容態なの」 娘の両肩から、張り詰めていたものが、かくりと落ちた。 「先月お腹にこのくらいの腫れ物ができちゃって、触ると痛いみたいなの。あまりごはん食べないし・・・お母さんもおとといからなんとなく調子が・・・」 ぽつぽつとこぼれる言葉は、涙のようで。 父親の腫れ物の大きさを示すために、丸く合わされた千尋の指先に、彼はそっと自分の手を重ねた。 ぴく、と少女の体が硬くなる。 が、かまわずハクは半ば強引に彼女の指を両手で包み込んだ。 「・・・あの・・・ハク・・・?」 見上げる少女の瞳に戸惑いが浮かぶより先に、 「かなり大きいね。お腹のどのあたり?」 彼は尋ねた。 少女の指に触れる自分の手に力がこもらないよう気をつけて。 「・・・え?・・・あ、ええと、左側の横腹・・・・」 「上のほう? それともへそより下?」 「下のほうだと思う」 「そう・・・・長引くかもしれないな」 「えっ」 少女の頬から一気に顔色が失われてゆく。 しかし。 気休めを言って安心させるのは易いが、こういうことはきちんと言うべきだと彼は思う。 「今日は一緒に薬草を摘みに行こう」 「え・・・」 「湯屋の薬は安くない。続けていたらそなたは借金だらけになってしまうよ」 湯屋という職場で借金を重ねるというのがどういうことか。 彼女にもわからぬはずがない。 「でも」 「大丈夫。心当たりがあるから」 釜爺に報告されていた内容から、おそらくよくない腫瘍ができているか、消化系の内臓に炎症を起こしているのだろうと見当をつけていた。 仕事で遠出する際に何度か回り道をして、それらに効く薬草が自生している場所を探しておいた。 「苦い薬草だから、甘い花と一緒にすれば食べやすいと思う」 「ハク・・・」 「花輪に編みこんで、陰干ししておけば日持ちもするよ」 「うん!ありがとう!」 千尋は龍の青年の手をぎゅっと握り返して、自分の胸に押し当てた。 今度はハクの肩が一瞬震えた。
「ハクって、いい人だね」 「・・・・。そんなことはないよ」 さあ、ご両親の様子を見に行こう、と促して、龍神は絡め取られた指を静かに解く。 千尋は元気に肯いて、ぱたぱたと走り出した。 ---------『いい人』。
ハクはその言葉を何度も反芻(はんすう)する。 噛み締めれば噛み締めるほど、ほろ苦い言葉だと、彼は思った。 いくほどもなく、油屋自慢の花園が見えてくる。 そして、花々の放つ濃厚な香りが二人にまとわりついた。 昨夜の雨に洗われて、色鮮やかに咲き誇る花々。 そのとりどりの色あやの中へ飛び込もうとした桃色水干を、お待ち、とハクが呼び止めた。 「なあに?--------きゃっ」 ふりむきざま視界がまっしろになって、千尋はすっとんきょうな声を上げた。 彼女の視界を頭からふわりと白く覆ったのは、---------ハクの上衣だった。 「花露に濡れるよ。被衣(かづき)がわりにおし」 すっぽりと被された白衣ごしに、頭の上からハクの声が聞こえた。 その声があまりにやわらかくて。 ぴしりときいた清潔すぎるほどの糊のにおいと、衣の持ち主のかすかな体温をふくんだ残り香に包まれて、一瞬千尋は泣きたくなった。 が、さっと笑顔を作り直し、衣から顔を出す。 「ありがとう。ハクってほんとに、---------いい人だね」 衣に添えられていた龍神の指先が、すっと体温を失った。そして。 「そんなことはないよ」 さきほどと似たような会話が繰り返された。 ---------『いい人』。
彼女はいつも、ここで予防線を張る。 それ以上は踏み込まないで欲しいと。 この被衣(かづき)ごと、思いのままに彼女を抱きとったなら。 自分たちの関係は終わりだと、言外に警告する。 こちらの気持ちは充分わかっているはず。 でも、それを受け入れることはできないと。 「行こう」 ハクは、白衣ごしに千尋の肩背に添えていた指を離すと、一歩先に進んで振り返り、 「さあ」 にこやかに片手を差し出した。 「うん」 千尋も笑顔で手を伸ばし、彼にそれを預ける。 そして二人は兄妹のように仲良く手をつないで、花の海の中に身を潜らせた。 ここまでだ。
むせるような花いきれの中を進みながら、彼は自分に言い聞かす。 自分に許されるのは、ここまでだと。 |