鐘楼(しょうろう)流し (5) 












あのねぇ、リンさん。

『前』のときはだめだったけど。


今度、もう一度、『チャンス』がめぐってきたらね。

わたしぜったい、おとうさんとおかあさん、見分けられる。








だいじょうぶ。

ちゃんと、見分けるもん。















それが、妹分の口癖だが。



最近少しずつ、きれいになってきた彼女が




時々


間違えて隣の豚にブラシをかけたりしているのを。








リンは見てみぬふりをしてやっている。








* * * * * * * * *









「さて・・・と。センたちが戻ってくるまでに済まさねぇとな」


暮れ日の落ちどきを見計らい、リンはハクに預かった『鍵』を握り締めて家畜舎へと向かった。


もう家畜当番の者の仕事も一応終わっている刻限だし、誰もいないはず・・・と思ったそこには、先客がいた。

一瞬ぎくりと身を固くしたリンだったが、その相手が、自分が請け負う『秘密』の数少ない共有者であることにほっとして、声をかける。





「板長さんじゃあないですか。こんな時間に珍しい」

「お、リンか。ちょうどええ。聞きたいことあったんや」





振り向いたのは、どったりした太鼓腹に腹巻、その上に派手な染め抜き紋の袖なし半纏(はんてん)という姿の大柄な牛蛙。

彼は長年湯屋の板場を仕切ってきた古蛙であった。


いつも気難しげに眉間に皺を寄せて包丁を握る彼は、どちらかと言えば短気なほうで、しょっちゅう調理場で怒鳴り声を上げている。

酷く潰れた彼のだみ声は、まさに夏夜の田んぼでうるさく鳴き散らす牛蛙そのもので、調理場中に響き渡るその迫力満点の罵声は、わきを通りかかるだけでその人と知れ。

若い小湯女らにはその声が苦手という者が多く、お世辞にも女に人気があるとは言えないが、大雑把ではあってもどこか気のいい彼を、リンは嫌いではなかった。



「聞きたいこと・・・ですかぁ?」



なにやら小難しげに顔をしかめて豚の柵に見入っている牛蛙の隣に、リンは並ぶ。
彼は短い指を折り折り、ぶつぶつと豚の数を数えては、首をひねっているようだった。


「わしの思い違いかもしれんけどなぁ」

「?」

「うーん。・・・ああ、そや、リン、ええもんやろ」


板長蛙は唐突に腹巻の中をごそごそ探ると、大きな飴を取り出した。
小さな子供が大喜びでぺろぺろなめる、白と桃色の派手なうずまき形の飴が割り箸にさしてあるものだ。


リンが笑いながらそれを受け取ると、気をよくした彼は、また腹巻の中からソースせんべいだの、粉ジュースだの、かるめ焼きだの、ムギチョコだの取り出しては次々とリンに押し付ける。


礼を言ってそれらを受け取りながら、リンが、板長の腹巻ってハクのヤローの懐みたいだな、どういう構造してるんだろ、などと思っていると、彼はさらに腹巻の中をごそごそやって、よれた煙草を取り出した。



「ちょ、ちょっと板長さん!」

「ん?リンも吸うか?」

「もうっ、ここ家畜舎じゃないですか。火気厳禁」



ちろりと睨む狐娘に、牛蛙はがはがは笑って煙草をしまう。



「キツいなぁ。だんだんハク様に似てきおってからに」

「!!!! やめてくださいよっ!!! 冗談じゃないっ!!!」

「なんでや? 弟子は師匠に似てくるもんやで?」

「それ以上言ったら帰りますからっっ」


ぷりぷりとふくれっ面のリンは、-------実は、目下ハクの下で帳場見習いをしている。


職場の配置換えにあたって、ハクから打診があったとき、リンはまず一声でそれを断った。

が、将来独立して商売でもするつもりなら帳場の知識はあったほうがいいぞ、との彼の言葉に一晩考え、結局それに従うことにしたのだった。



「どや、帳場はしんどないか?」        
※「しんどないか?」=「つらくないか?」


「女中やってる方が肩凝らなくていいですけどー」



金の出入りの計算に、資金調達の交渉、買い付け取引からつけの回収、さらに従業員たちの勤務調整まで、帳場の仕事は多岐に渡る上に複雑、そして長時間勤務だ。

頭も体もへとへとになって女部屋に戻るころには、他の女達はもうぐうぐうと寝入っている。

肉体的に疲労していても、神経をすり減らした労働のあとというのは気が昂ぶっていて、すぐには寝付けない。
眠れぬままに何度も寝返りを打っていると、隣の布団から妹分の人間の子が顔を出して、リンさん大変そうだね、大丈夫?と、小さく声をかけてきたりする。


当初リンは思いっきり後悔したものだが、ようよう最近、新しい職にも慣れてきたところというか。

湯屋の収支計算など小遣いやりくりの延長だと思えばいい!と開き直るくらいの方が、かえって能率がいいこともわかり。
支払いをずるずるとしぶるような相手には、時にはやんわりと、また時には声を荒げて詰め寄り、うまく交渉事を運ぶこつも覚えた。


直属上司の龍は、「そなたは計算に少々あらがあるが、金子(きんす)をやりとりする駆け引きには私よりも才能がありそうだ」などと言って笑う。

こちらの気も知らずに、腹立たしいったらない。




「まさか、おまえがハク様の部下になる日が来るとは思わんかったわ」

「・・・・・・・・・」



さらにあのいけすかない帳場頭は、「蛙男たちを顎の先で使うところなど、私よりずっとさまになっているではないか」などと抜かすのだ。




「犬と猿っちゅうか、狐と龍っちゅうか。あははは。ええ取り合わせやで」

「いい加減にしてくださいよっ! で、なんなんですかっ『聞きたいこと』って!?」



かーーっときて、リンが思わず囲い柵をがん!と両こぶしでたたいたのがまずかった。
その音に驚いた数頭の豚が悲鳴を上げ、とたんに、豚舎の中は大騒ぎになる。


「あほ!!こらリン、何するんや! 」


興奮状態が畜舎中に伝染して、次から次へと暴れだす豚たちを、牛蛙が大慌てでなだめにかかる。



「ああよしよし、なんでもない、なんでもないよって・・・・・・おとなしゅうせんかいわれ酢豚にされたいんかこのあほんだら!!」






























・・・・・・で、・・・・そのー、な、何でしたっけ板長さん、ええと、『聞きたいこと』って」

もとの静寂を取り戻した豚舎の中で、リンが少々上ずった声で話を戻す。




「ん?ああ・・・・その・・・なんちゅうかな、リン」

「はい?」

「おまえな、・・・・その、ハク様に頼まれて例のアレ、しに来たんやろ?」

「・・・・・あ、はぁ」



リンはハクに渡された鍵をぎゅっと握りなおした。
この牛蛙は立場上、事情を承知している。

自分と同様、『この仕事』を帳場頭から頼まれることもある。



「今夜は何匹・・・あ、いや、何人や?」



リンの知っている限りでは、このことを知っている従業員はハク、自分、この板長の三人だけだ。



「二人、って言われましたけど」

「二人・・・・そうやな、うん、二人のはずや」

「何か変ですか?」

「いや。確かに二人や。--------------わしが今月、手にかけたんは」




どう反応を返したものかとリンが迷った分、会話に微妙な間があいた。



「そんな言い方しなくても・・・板長さん悪いことしてるわけじゃないし」






『手にかける』-------------すなわち、家畜を食材として屠殺すること。

上からの指示に従って、家畜を神の食料とするために屠(ほふ)るのは、調理場の長の役目だ。
それは長年の湯屋の掟で、他の調理人や従業員が手出しするのは許されない。






「まぁな。仕事やし、しゃあないわな」

「・・・・・・」

「センが来るまでは別に気にもしてへんかってんけどな。『豚』も『魚』も同じもんや思うてさばいてたし」





むろん千尋とて、板場の長の立場は理解している。
彼を責めたりなど、決してしない。

だが、目に涙をいっぱいためて豚料理を客間に運ぶ彼女は、傍目にも痛々しかった。




「・・・・板長さん、えーと、その、それはセンにしたって仕方ないっていうか、・・・・」



返事に四苦八苦するリンの肩をぽんとたたき、牛蛙は気さくに彼女の今宵の『仕事』の手伝いを申し出た。

断る理由もないので、彼女はありがたくそれを受けることにする。






リンがハクに頼まれた仕事。
そして、時にはこの板長が請け負うこともある仕事。








それは、-------『弔い』である。

もとは、人間であったものたちの。








もともとはハクが一人でそれを行っていたという。

が、千尋がこの湯屋に来てからは、自分が彼女を湯屋の外へ連れ出し、その間にそれを済ませておいて欲しいとリンか板長蛙に頼むようになった。

あまり気持ちのいい仕事ではないが、彼の心情はよくわかるので、二人とも黙ってそれを引き受けている。




「それよりな、リン」

「はい?」

「しばらくの間、豚の数に気ぃつけといてくれるか」

「はあ?」

「豚の番号おうてるか、とかもな」

「?」



豚たちには名前はなく、朱塗りの札に記された番号でそれぞれ管理されている。

たとえば、千尋の父親は「拾弐」、母親は「拾三」、というように。


客である神から豚料理の注文があったときには、ハクから調理場に、何番の豚を、という形で指示が出るのだ。


豚の番号や数に何か不審なことでもあったのかとリンは心配になったが、牛蛙の横顔が思いのほか硬かったので、なんとなくそれ以上は聞けなかった。




二人は畜舎の一番奥の飼料置き場へと進む。

そして、山のように積み上げてあった干し藁をがさがさと掻き分けた。
藁の下から、マンホールの蓋によく似た丸い金属製の小扉が現れる。
一見それは、使われなくなった汚物処理用の穴をふさいでいるもの、くらいにしか見えない。

が、その真ん中にある小さな穴に、リンが例の鍵を差し込むとそれがことりと観音開きに開いて、中には地下へと続く階段が伸びていた。



「ほな、行こか」


肯いて、リンは一歩前を行く牛蛙に続いて、階段を下りていった。






階段を下りきると、そこは小部屋になっていて、中央に祭壇がある。
祭壇の前には、とむらいのための灯篭舟が二つ、用意されていた。



小ぶりな木船の上に、和紙で直方体にかたちどられた灯篭がのっていて、そこにはうさぎとひよこの絵が描かれている。

灯篭船はハクが用意しているらしいが、なぜかいつも同じ絵柄だ。
いかにも幼い子供が喜んで描くような、楽しげで愛らしい動物や花。

リンにはその理由などもとよりわからないが、別に気に留めてもいない。
あの龍が描いているにしてはやけに可愛いらしすぎるきらいもあるが、灯篭の絵なんてそんなものなのかな、と思う程度だ。





二艘の灯篭船の手前には、白磁の皿がそれぞれ置いてあり、その上には塩漬けにされた豚の臓物がひとつづつ載せてあった。

ひとつは心臓、もうひとつは子宮であった。


祭壇の上に真紅の布に包まれた細身の小刀が置かれている。
それを手に取ろうとしたリンを、牛蛙が遮った。



「わしがやるわ」

「え?でも、、、」

「かまへん。わしが塩漬けにしたんやし」



蛙は慣れた手つきで白刃の刀を手にすると、さくさくと皿の上の臓物をさばき始めた。
きちんと血抜きされたそれらは異臭をはなつこともなく、やや黒味のかかった桃色の肉片に手際よく切り分けられていく。

刃先にこつんと硬質な手ごたえを感じて、板長は刀を止めた。



「ありましたか?」

「ああ。・・・んんー、指輪みたいやな」



切り開いた豚の子宮に手をつっこんで、蛙はそこから飾り気のない銀色の小さな指輪を取り出した。

同様にもうひとつの皿の上の心臓からは、ライターを探し出す。





「夫婦だったんですかね?」

「さあなぁ」

「『形見』、洗ってきます」

「ああ」



リンはそれらを板長蛙の手から受け取って、さっと洗ってから灯篭船に乗せた。



『形見』と呼ばれるそれら--------今回は、指輪とライターだったが--------は。

彼らが人間であったときに身につけていたもので、神にささげる食材として解体されると体内から現れる。

男の場合は心臓、女は子宮から。
おそらく、人間として生きていた時に、大切にしていたものなのだろう。


その『形見』を灯篭船に乗せて、次の場所へと彼らを送り出してやるところまでが、帳場頭に頼まれた『仕事』であった。







豚が神に食べられるというのは、ではない。
贖罪(しょくざい)だ。




神の食物を食べるという罪を犯した人間は、豚になる。
豚になってしまった人間は、自力ではまずもとの姿には戻れない。

ごくごく例外的に、魔女との何らかの勝負や取引によって、生還する者もいるが、それはまさに奇跡に近いこと。



普通豚たちは、神に食されることによって、やっと罪を『赦(ゆる)される』---------つまり、人間の世界に戻ることができる-------------のだ。





ただし、さすがに完全なもとどおりの場所に、というわけにはいかない。
別の人間として生まれ変わる、ということなのだが。










そのために。

灯篭船が必要なのだ。





灯篭船に『形見』を乗せて。

夜にだけ不思議の街に現れる川に、流す。



不思議の街から外の世界へとつながる川に、流す。








罪を赦された魂は。


川面を照らす灯篭の灯りに導かれ。




この混沌の街をあとにする。

畜生としての投獄生活から解放される。










そして、水の流れと灯篭の灯のたゆらぎに手招かれるがままに




輪廻転生を預かる母なる女神の胸ふところへ













安らかに抱き取られてゆくのである。























リンと牛蛙は、宵闇せまる河原にひざをつき。

ひとつの灯篭船には銀の指輪を。
もうひとつにはライターをのせ。

それぞれに灯りを入れ、静かに手を合わせてから、川に放した。




灯篭船はとまどうように、川岸近くでゆるい螺旋を描いていたが。



「行きな。もういいんだから」



リンの言葉にほだされたかのように、それらは、すい、と流れに乗って川下を目指し始めた。





月をたたえた夜空の下、ふたつの火影のまたたきは川風にあやされて。
灯篭に描かれたうさぎやひよこは歌うようにくるくる回り。


二艘の灯篭船はしばらくの間互いにくっついたり離れたりを繰り返していたが、やがてはっきりと別々の道ゆきをたどりはじめた。


それぞれの行くべきところへ向かって。


川面に細い光の残像を残しながらだんだん小さくなる船影を、リンと板長蛙は黙って見送った。






ふたつの灯が水面の向こうに見えなくなったのを確認し、肩の荷がおりたとばかりに、狐娘が大きく息を吐く。
そして隣の牛蛙に、聞くともなしに語りかけた。



「あのさぁ、板長さん」

「ああ?」

「・・・・・湯屋のゴミ捨て穴の中のうじゃうじゃした影っていうか、もぞもぞしてる黒いやつらってさ・・・・」




彼女らしくもなく、言いかけてから、いったん言いよどむ。




「その・・・・・神様に食ってもらえねえで、死んじまった豚、・・・・・なんだよ、ねぇ?」




狐娘の口調は、まだ歯切れが悪い。




「ハク様に聞いたんか?」

「ん・・・」




屠殺場で血だるまになって断末魔の叫びを上げる豚の姿は、誰しも目をそむけたくなるものだ。


だが。
彼らはある意味、まだ救いがある。

灯篭船とともに弔われ、輪廻の輪の中に戻されて、新しい生を生きることができる。



しかし中には、神に食われることなく死ぬ豚もたくさんいる。


罪のつぐないをできずに死んだ者の末路は、悲惨である。
神に赦されることなくついえた者たちの魂は、---------永遠に行き場を失ってしまうのだ。

運命を恨み、人生を悔やんで泣き喚き続けるうち、いつしか自分が何者であったのかも忘れ、何に苦しんでいるのかもわからなくなり、ついには実体のない、恨みの意識の塊となってまでうめきもがき続け、傷つけあううちに、最後にはどこまでが自分でどこからが他人なのかすらわからない怨祖と呪恨の集合体となってしまう。


湯屋のあのダストシュートは、そういう者たちが怨みあふれるままに暴れださぬよう封じ込めて置く場所なのだ。

湯屋は。実はそのものが、華美で巨大な『封印の墓石』でもあるのだった。




「他のもんに言うんやないぞ。わしらだけでええんや。こういうややこしいことに関わるんは」

「でも・・・・板長さん?」

「なんや」

「あの・・・・センのおやじさんとかおふくろさんってさ」

「・・・・・・」

「順番からいったらもうとっくに『食べて』もらってるはずじゃ・・・・・」

「リン!」



狐娘の言いかけた言葉を、牛蛙は強い調子で遮った。



「『食べて』もらう順番決めるんはハク様や。余計な事考えるんやない」

「でも、センが」

「センには絶対言うな!」

「だ、だけどっ! おやじさんたち最近、具合悪いし! ぐずぐずしてたら・・・っ!」




食い下がる狐娘を睨みつけていた牛蛙だったが。
張り詰めた表情を、つい、と落とした。



「・・・・かわいそうやないか。センに決めさせる気か?」

「え・・・・」



人間として生まれ変わるために調理場の俎板(まないた)の上で血まみれになって息絶えるか。

それとも。

神に食してもらうことなく命を落とし永遠の苦しみを彷徨う可能性をも覚悟して、奇跡にも近い『チャンス』----------千尋はすでに一度それを逃してしまっている----------を待つか。




「早う親殺してください、て、あの子がハク様に頼める思うか?」

「・・・あ・・・」

「かと言うてやな、下手に命乞いもでけへんやないか」

「・・・・・・」

「ずるずる引き延ばして死なせてしもうて、ゴミ穴行きになったら、・・・・・・それはそれで、センは自分を責めるやろ」




リンは返事ができなかった。


屠殺か、怨霊化か。

実の親を、こんなてんびんに掛けさせることは、あまりにむごい。

てんびんがどちらに傾いても、千尋は必ず傷つく。





「センは何も知らんほうが、ええんや」





牛蛙は腹巻の中から、先刻吸い損ねた煙草を取り出して火をつけた。


灯篭船が消えて行った水平線が、紫煙に霞む。


薄まる煙の向こうから、青い水面が静かに輪郭を取り戻すのを眺めながら。
リンはふと、なぜこの板長蛙があんなに豚の数を気にしていたのだろうかと思い返したが。


二人はそれ以上何も話さなかった。














♪この壁紙はさまよりいただきました。♪