鐘楼(しょうろう)流し (6)
人間の娘を背に乗せた白い龍の視界の先端に湯屋の遠影が見えてきたころには、もう夜は白みかけており。 明けの匂(におい)と夜陰の彩(いろ)のあわう空低く、沈みそこねた月が褪せた姿をしらじらとさらしていた。 空気のざわめく音に気づいたリンが、女部屋の障子を細く開けて外をうかがうと、朱(あけ)色の雲たなびく東の空を、白い龍がゆったり旋回しながら高度を落としているところだった。 ・・・・・朝帰りかよ。
彼女は小さく舌打ちして、また寝床に戻る。 その隣には、いつ妹分が帰ってきてもよいように一人分の布団が余分に敷いてあった。 子供ではないのだから、二人のことに余計な口を挟むつもりはない。 もちろん、必要以上のおせっかいを焼くつもりもない。 ただ。 二人とも、どうせなら
もうちっと幸せそうな顔してりゃあよさそうなもんを。 狐娘は小さく寝返りを打って頭から布団にもぐりこむ。 もう寝付けないだろうな、とは思いながら。 * * * * * * * * *
白龍はかすかな風埃を舞い上げながら地へ降り立った。 そしてしずかに龍身を解き、朝いろに染まりはじめた太鼓橋のたもとに。 すらりとした白衣の青年の背に負われて、すうすう寝息を立てている人間の娘。 彼女の腰には、濃翠のちりめんに萩の花を染め散らした風呂敷包み。 その中には、両親のために昨日一日がかりで摘み集めてきた薬草が、大切にしまわれていた。 えてして薬草というものは地味で目立たないことが多い。 しかもこれは、若い芽とその根にしか薬効がないものだったので、集めるのにたいそう骨が折れた。 うっそうとした山林に分け入り、ヒカゲノカズラやイワヒバなどのシダ類が生い茂る湿っぽい下草の中に腰をかがめ、発芽して間もない小さな芽を見つけ出しては、その細根ごと切れないよう気をつけて掘り集める---------それはそれは根気のいる作業で。 日も傾き、今日はもうしまいにしよう、とハクが何度声をかけても、千尋は、痛む腰をかばいつつ、指先を小さな泥傷だらけにし、目を真っ赤にしながらも、もう少しあともう少しだけ、となかなかやめようとしない。 這うように迫る山暗がりは、いったんその舌で地を舐め取ると、とたんにとっぷり色濃く深くなるもの。 夜目の利く龍神はともかく、人の子の手提灯での作業にはどうしても限界がある。 東の山の端(は)に月が昇り北の空に極星がまたたきだしたころ、これ以上は無理だと判断したハクは半ば強引にそれをやめさせた。 そして予約を入れていた里の料理屋で、遅い夕食と湯をとったとたん、・・・・彼女はそのままくってりと寝入ってしまい。 お泊まりですか、と、気を利かせて声をかけてきた女将(おかみ)に笑って首をふり、ハクは千尋を背負ってこの湯屋まで戻ってきたのだった。 「千尋? 起きられるかい?」 龍の青年は肩越しにささやいた。 ひとつに重なったままのふたりの影は、昇りかけの朝日の中、太鼓橋の上に細く長く伸びて、なめらかな弧を描いている。 「もう少し眠る? このまま部屋までおぶって行こうか?」 「・・・・んーー・・・」 夢心地半分のまま少女が身じろぎをして、背にかかる重心がかすかに移動する。 背中のぬくみを手放すのが少し惜しくなって、ハクはこう続けてみた。 「---------私の部屋でいい?」 「っ!」 その言葉に千尋ははっと目を覚まし、あわてて彼の背から飛び降りる。 「あっ、わ、わたしっ、ごめんなさい、寝ちゃったみたいで、あのっ、、、」 「構わないよ。疲れたろう?」 「電車で帰ろうね、って言ってたのに、・・・わたしがぐずぐずしてたから終電のがしちゃったんだ・・・」 「いいってば」 「でも、ハク、わたしをのせてずっと飛んでたんでしょう? ぜんぜん寝てないんでしょう?」 休日は終わった。 あと数時間で、湯屋はまた活動を始める。 「一晩二晩眠らなくても、平気だよ。慣れているし」 「でも・・・・」 まだ申し訳なさげに眉根を寄せている娘の肩を、ハクはぽんとたたいた。 「今日はそんなに忙しくないはずだし、遠出の仕事も入っていないから心配いらないよ。それに、リンもよく助けてくれるから、最近はずいぶん楽なんだよ」 「・・・・・・」 「仕事支度にはまだ早いね。千尋はこれからどうする?」 言外に、よかったら自分の部屋で茶菓でも、という誘いが含まれているのを敏感に感じ取った千尋は、即座に答えた。 「お父さんたちのとこに行ってくる」 そう、と龍の青年は少し笑った。 ありがとう、と走り出しかけた千尋はふと、白水干の懐から、見慣れない草葉がちらりとこぼれ出ていることに気づいて足を止めた。 「ハク、それも薬草?」 「え? ・・・うん、まあ、そんなものだよ」 彼はさりげなくそれを懐奥にしまいこんだが、千尋は見逃さなかった。 「一緒に集めてたのと違うよね? 何のお薬なの?」 やれやれ、なぜ彼女はこういうことに勘が鋭いのだろうと、ハクは舌を巻いた。 普段はさほど目ざといとか頭が切れるとかそういうたちの娘ではないのに、下手なごまかしは必ず見破るのだ。 彼は言葉を選びながら慎重に答える。 「痛み止めだよ」 「痛み止め?」 「そう」 嘘ではない。 「そんな薬草、初めて見た・・・・ボイラー室にも、ないよね?」 「うん、そうかもしれない」 「あのう、・・・もしお父さんたちの痛みがひどくなったら、分けてくれ----」 「だめだ」 思いのほか厳しく拒絶され、千尋は一瞬言葉につまった。 「・・あ・・・ごめんなさ・・・・厚かましいこと言って・・・」 そして、今度は、無性に恥ずかしくなった。 とても高価なものなのかもしれない。 自分などが手にできるものではなかったのかもしれない。 目の前の青年がいつでも頼みを聞いてくれるのに慣れてしまっている自分が情けなく、千尋は身を縮こめてこうべを垂れた。 「ごめんなさい。わたしってば、・・・」 だいたい自分は、彼の好意に甘えすぎだ。 そのくせ、彼の気持ちを女として受け入れることは、いつもぎりぎりのところで避けている。 ハクが無理強いしないのをいいことに、そういう状態に甘んじているというのが、どれほど残酷なことなのかはよく分かっているのに。 すっかりしょげこんだ少女を前に、今度は龍の青年の方が困ってしまった。 「ああ、そんな顔しないで。意地悪したつもりじゃないんだよ」 「うん」 山の中、薬草を集める千尋のかたわらで偶然この草を見つけ、ついこっそり懐にしのばせてきてしまったのだが、ハクはそれを激しく後悔した。 これは、正確には『薬草』というより『麻薬』に近い。 病や傷の痛みには劇的な効果があるが、副作用というか、中毒作用があるのだ。 一度服用すると死ぬまで手放せなくなる上に、様々な弊害がある。 「その・・・とても強い薬でね」 「うん」 「できれば使わないに越したことはない、っていう意味で言ったんだ」 「うん、わかった」 わかった、と言いながらもうつむいたまま、伏せた睫毛を震わせている少女の気持ちをどう解いたらよいのかわからない。 とうとう龍神は娘の肩に手を添えて背をかがめ、その顔を覗き込んで懇願した。 「こんな草ひとつで、私のことを嫌わないで欲しい」 「・・・・えっ・・」 彼女にとっては少々意外な切り返しだったらしく、つぶらな瞳が驚きに見開かれたが、彼はそのまま真っ正直に訴え続けるしかなかった。 「他人(ひと)に嫌われるのには慣れているけれど」 「ハク、、、、あの、、、、」 「そなたに嫌われたら、どうしてよいかわからない」 我ながら格好悪いことこの上ないとは思うが、他に方法が思い浮かばないから仕方ない。 「そんな・・・嫌うだなんて・・・・」 千尋はおろおろと瞳を泳がせる。 立場上、彼に嫌われて困るのはむしろこちらの方なのだ。 ここまでまっすぐにまごころを示してくれる男性はそうはいない。 こちらの負担にならないようにと気遣って、はっきりした言葉にすることはないけれども、それが友情以上のものであることがわからないほど、子供ではない。 それがわかっていながら、そんな彼の気持ちに、ある時は頼り、またある時はかわしている自分はなんて酷い女なのだろうと思うと、--------------本当にいたたまれなかった。 でも。 千尋は顔を上げてにっこり笑ってみせた。 「ハクを嫌うだなんて。そんなことあるわけないじゃない」 わたしって。
「ちひ・・・」 ほんとに嫌な子だ。
「だって、わたしハクのこと、好きなのよ?」 愛想をつかされないよう気をつけながら。
「え・・・・・・・?」 上手に距離と。
「ハクみたいに『親切』にしてくれる人、いないもの」 間合いをとるこつを。
「・・あ・・親・・・?・・・・・ああ、そうだね、・・うん・・・」 いったい、いつの間に覚えてしまったんだろう。
「いつもありがとう。ほんとに感謝してる」 ・・・・・ごめんね。
青年の両手が力なく落ちて、少女の肩を解放した。 「・・・・そんなこと、・・・気にしなくていいのに・・・」 それを待っていたかのように、千尋は微笑ひとつ残し、畜舎へと走り去る。 取り残された若い龍は、たまらない脱力感にそのままその場に座り込んだ。 -----------とんだ『ぬか喜び』を。 少女の一挙一動に、滑稽なほど舞い上がったり落胆したりする自分の感情をもてあまし、ぐったりと肩を落とした彼の頭上から。 「ああもう。じれったいねぇ」 聞き慣れた声がした。 「これは、・・・・銭婆様。」 あわてて立ち上がろうとしたハクを軽く制し、老婆は彼の隣に並んで座る。 「ハク龍や。あんたほんとに女心わかってないんだから」 「・・・・はあ。どうもそういう方面は無調法で」 魔女は大きなため息まじりに若者を見やる。 「男なんだから、もっとしゃんとしなさいな。千尋ちゃんが可哀想で見てられないよ」 「しゃんと、と言われましても」 「わたしはあの子を守りなさい、って言ったんだよ? 苦しませてどうするのさ」 瞬間、龍の青年の瞳がやり場のない感情にぎりと見開かれたが。 それはまたすぐに、かろうじて元の静寂を取り戻す。 「・・・・・・千尋につきまとうな、ということですか?」 「馬鹿なことお言いじゃないよ」 「私はたぶん、彼女の両親の生死に一番近い場所にいます。---------でも、それを盾に取って理不尽な真似をしたことは一度もありません」 「この石頭。何言ってんだか」 「は?」 言下に頭から否定され、彼はさすがに不機嫌をあらわにした。 「では、どうしろと?」 「なんというかねぇ。千尋ちゃんの気持ちをもっと・・・・」 「そのようなこと百も承知です!」 思わず興奮して爆発しそうになった感情を。 龍の青年は震える声で押さえ込む。 「----------貴女は、私がどんな思いで彼女の側にいるかご存じない」 が、気持ちの制御に精一杯になっている若者を横目に、老婆は涼しい顔でさらに追い討ちをかけた。 「そんなに好きならとっとと思いを遂げてしまえばいいだろうに」 「は・・・っ?!」 「いっそその方が千尋ちゃんも吹っ切れて楽になるかもね」 何が言いたいのだ、この老女は。
面白がっているのか。 それとも、試しているのか。 人の気持ちをなんだと思って・・・・! 胸にふつふつと湧き上がる怒りにも似た感情に、龍の若者はいっとき唇を震わせていたが。 「・・・・なんということをおっしゃるのです。遊びならばともかく、」 諦めとも達観ともつかない掠れた声で、彼女に言った。 「好いた娘を手篭めにするような真似など、できるわけがないでしょう」 「・・・・あのねぇハク龍、ちょっとあんた、」 「男なら、誰だってそうだと思いますが」 まだ何をか言わんとする魔女との会話を一方的に打ち切り、ハクは立ち上がって一礼すると彼女に背を向けた。 去ってゆく若者の固い背中を見送りながら。 沼の底の魔女はため息をついた。 -----------まったく男って馬鹿なんだから。手に負えやしない。 そして、困ったねぇ、と空を仰ぐ。 さらに、彼女にはもうひとつ気がかりなことがあった。 ハクが懐にしのばせていた、『薬草』のことだ。 あれはそもそも、死期が迫り手の施しようのなくなった病人の苦痛をやわらげるために用いたり、痛みを感じる感覚を麻痺させたまま処刑あるいは抹殺などの必要に迫られた際に用いたりするものだ。 そして時には、・・・自殺や心中にも使われる。 ----------あんな不吉なもの。どうするつもりなんだろうね。 |