鐘楼(しょうろう)流し (7)
湯屋より一段低い窪地にしつらえられている畜舎周辺には、まだ薄い朝霞が立ちこめていた。 半透明にくすむ小道が、しめりを帯びた乳色のもやの波間になかば浮かび、なかば沈み、その先に佇(たたず)む家畜小屋も、あわ白い空気の中につかみどころなく滲(にじ)んでいて、その輪郭は陽炎(かげろう)のように頼りなげだった。 まといつく露霧に裾を濡らしながら、みちゆきを小走りに急ぐ人間の娘のきゃしゃな素足。 その白いやわ足には不似合いな、大きめの古草履―――ここに来た時に履いていた子供用の運動靴はとうに小さくなってしまったので、先輩の履き古しをお下がりにもらったものだ―――は水気を吸って重く、自分ですげ直したばかりの鼻緒が神経質にきしきし鳴る。 千尋が畜舎に足を踏み入れると、どの豚もまだぐっすりと眠っていた。 人の気配にぴくりと耳をそば立てたものも数頭いたが、それ以上の異状を感じなかったと見えて、それらもまたすぐに眠りの淵に沈んでいった。 必要以上に豚たちを驚かさないよう気をつけて、彼女は両親のいる「拾弐」と「拾三」の札がかかった柵へと足を進める。 彼らもまた、寝息で腹を大きく上下させながら、寝藁の上にごろりと横たわっていた。 --------あとにしようかな。起こすのかわいそうだし。 彼女の手には、昨夜、龍の青年と摘み集めてきた薬草を包んだ風呂敷包みが握り締められている。 迷う細い指の先で、緩みかけていた結び目が解け、包みの中からかさりと何かが落ちた。 それは、豆科と思われる桃色の花とそのつるを輪にして、摘み集めてきた薬草を編みこんだものだった。 --------あ? ハクが・・・・? この薬草は苦くて食べにくい、と彼は言っていた。 花輪にして陰干しにしておけば日持ちもするし薬のえぐみもごまかせる、と。 が、自分は昨日一日薬草を摘むのに精一杯で、そこまで気が回らなかった。 蝶が羽を広げたような大ぶりな花びらの中央に、小さな花芯がそっとのぞく、豆科の花特有の可憐なたたずまい。 それは、彼女に昔のある記憶を呼び起こさせた。 --------『あのとき』の花と似てる。 10才の夏、右も左もわからぬ湯屋に迷い込み、眠れぬ夜が明けるのを震えながら待って。 夢とも現実ともつかない世界を受け入れることに精一杯で、空腹すら忘れていた自分に、お食べ、と差し出された白いおにぎり。 肩に添えられた、やわらかい手。 泣きじゃくる自分と龍の少年を包み込んでいた、花の盛りの豆畑。 淡い桃色にたゆむ花弁が、大粒の涙の向こうに滲んでゆれていた。 あの時肩越しにかけられた言葉のひとつひとつ、頬なでた風の匂いや蜜蜂の羽音まで、すべて鮮明に覚えている。 千尋は思わず薬草の花輪を抱きしめ、そして、くいと顔を上げると。 --------!! いけない!! たった今までしっかりと区別認識できていた、自分の両親が、いったいどの豚なのかわからなくなった。 大慌てで柵にかけられている木札を確認し、両親の「拾弐」「拾三」の番号を探す。 --------どうしよう・・・・ まただ・・・! 千尋は必死に豚の柵に目を凝らす。 四角く囲まれた木枠の中にはそれぞれ3〜4頭ずつ豚が入れられている。 明夫と悠子を含む枠には、合計4頭の豚が折り重なるように眠っていた。 千尋はその枠にへばりつくようにして、おろおろと1頭1頭の豚を見比べる。 うち1頭は比較的小柄で若い豚だ。これは違う。すぐに見分けがついた。 残る3頭のうち、1頭は雌、2頭が雄。ということは、雌のほうが、母、悠子だ。 残る2頭の雄の見分けがつかない。 千尋は柵を乗り越えて豚たちの傍らに寄り、1頭の雄豚の横腹をそっと手で探った。 父、明夫なら、へそのやや下に丸いしこりがあるはずだ。 病位を目印にするのは悲しいが、しかたない。 そろりそろりと慎重にその腹を撫でていると、左横腹にこりっとした肉の固まりの手触りがあった。 --------お父さ・・・ ほっとしたのもつかの間、次の瞬間千尋はその豚に蹴り飛ばされ、後頭部を木柵にしたたかにぶつけた。 患部を触られて、痛かったのだろう。 雄豚は半身を起こして荒い息を吐きながら、千尋をぎりぎりとにらみつけている。 「ああ、ごめんなさい・・・・ごめ・・・」 自分をねめつけているその目は、眠りを苦痛でさえぎられた怒りと警戒心にあふれる獣のもので、どう見ても、・・・・実の娘に注ぐそれではなかった。 がしかし、この雄豚が父親であることは間違いないのだ。 千尋はぐすん、と一度鼻をすすり、それから気を取り直して豚をなだめにかかる。 「お父さん、これお薬なの。とってもよく効くし、おいしいのよ? さあ、食べて?」 薬草の花輪を手に、そっと父に近づくと、――――その隣で熟睡していたもう1頭の雄豚の背後から、不意に誰かがぬっとのぞいた。 「きゃあっ!?」 こんな刻限こんな場所で他人と鉢合わすなど思ってもいなかった千尋は、思わず小さな悲鳴を上げてしりもちをついた。 まだ息も整わぬ娘の前に、それはぬらりと全姿を現す。 妙に上背の高い、土気色の顔色の男。 湯屋のお仕着せの水干の襟元をだらりとはだけ、結い紐を結ぶでもなく解くでもなく中途半端にぷらぷらさせながら、近づいてくる。 「・・・・なんだ? こんな時間に妙な奴だな」 それはこっちの聞きたいこと、と言いたいとことろだが、服装からして同じ職場の従業員、のっけからあまりつっけんどんな態度をとるわけにもいかない。が。 「あの・・・・あなたの横にいる豚、・・・・そのぅ、わたしの、・・・・・」 つい先ほどまで、いぎたなく涎(よだれ)を垂らした口を半開きにして眠っていたそれ、そしてたった今、自分を容赦なく蹴り飛ばしたその豚が、自分の産みの親ですとも言いにくく、千尋はもごもご口ごもる。 そして立ち上がりながら、この男は誰だったかと、記憶の糸をたぐってみる。 見た目、蛙男たちとはやや異なる印象のあるこの男は、確か厨房でつい最近何度か見かけたような。 千尋より頭ふたつみっつぶん背が高い。 が、すらりとした長身というよりは、・・・・・首が体長の割に長いのだ。 肩あたりまでの高さは蛙たちとそう変わりはしないだろうが、襟の上にすぐ頭がのっかっているずんぐりした彼らとは違い、襟元からちょうど頭ひとつぶんほどあろうかと思われる太くて長い首がぬうと伸びていて、赤銅色の鱗(うろこ)に覆われたそれには金色の縦縞(たてじま)模様が数本入っている。 その長い首の上に、逆三角形に近いうりざね顔がのっていて、鈍色の瞳には縦に細長く糸を引いたような瞳孔。 水干の上着の裾からは、首と同じ縞(しま)の入った細い尾が床まで伸び、てらてらと金属的な光を放ちながら、右に左にうねっていた。 その、いかにも爬虫類を思わせる外見は、一見、蛇に似ているような。 がしかし、手足には不ぞろいな長さの5本の細い指がついており、それぞれに長く鋭い鈎爪(かぎづめ)がついているあたり、どうやら蛇ではなさそうな。 「・・・ああ。そういやここには人間の女がいるって聞いてたっけな。お前か」 男はその長い首を無遠慮に千尋の目の前に伸ばし、ねたりと笑った。 薄い唇がにぃっと横に開き、言葉を発するたびに、そこから針のような真っ赤な舌がちろちろとのぞく。 あまり長く会話したいと思える相手ではないので、千尋は顔を背けてそっけなく答えた。 「そうですけど。わたし、その豚の世話をしないといけないんです。どいてください」 返事を聞いているのかいないのか、男はにじりと一歩娘に近寄り、彼女の体を上から下まで粘りつくような視線で眺め回す。 「へぇ。お前がねぇ。ナメクジどもと一緒に客に『ご奉仕』してるわけってか」 下卑た物言いにむっとして千尋は顔を上げ、 ―――――ひっ!? 思わず上げそうになった悲鳴と吐き気を、必死で飲み込んだ。 眼前でこちらを覗き込むの男の土気色の顔面に、血のような真っ赤な痣(あざ)がざあと浮かび上がっていたのだ。 顔の両側面―――あごもとから頬の横を通って目尻、そしてこめかみへかけて―――が、毛細血管をそのまま皮膚表面に貼り付けたかのような真紅の網目模様に染め上げられている。 他人の姿形を気持ち悪いと思うなんていけない、いくらなんでも失礼だ、とは思うものの、生理的にとても受け付けることのできないそのグロテスクな形相を、千尋は正視できなかった。 「『向こう』じゃさんざ人間に痛めつけられたもんだったが・・・・ふうん」 声を上げることもできずに身を凝(こご)らせている娘に、男はまた一歩にじり寄り、その鉤爪の先に少女の顎先を引っ掛けてくいと上向かせた。 「悪くねぇな」 ―――――や、やだ・・・! 本能的に身の危険を感じ、後ずさろうとするものの、足がすくんでうまく動けない。 それをいいことに男がさらに顔を近づけようとした時、二人の背後から声がした。 「何してんだよ、オオト」 声の主はリンだった。 家畜小屋の戸口にもたれて腕組みをし、ぶすりとこちらを睨んでいる。 が、オオトと呼ばれた男の上げた顔に浮かぶ血糊色の痣を見て、――――彼女ははっと顔色を変え、声を荒げて言い放った。 「なっ!?! あんた朝っぱらから、なに気色悪い顔さらしてんだよ!! とっとと男部屋に戻りなっ!!」 そしてずかずかと二人の間に割って入り、男から妹分を引きはがす。 「おいおい無粋なマネするんじゃねぇよ。威勢のいい帳場の姉ちゃん」 そう言いながらも、一応帳場という、職場の人事や勤務査定にも関わる部署にいる彼女の登場に、男はあっさり引き下がる。 「またな」 細い目の端に千尋をにやりととらえ、てらてら光る縞模様の尾を左右にくねくね揺すりながら男は家畜小屋を出て行った。 リンは男が完全に視野から消えたのを確認してから、腕の中の人間の子を叱り付ける。 「セン!? ハクの奴と一緒じゃなかったのか? いったいなんだってこんな時分にあんな奴と」 「あの、わたし、お父さんたちの・・・」 「ハクもハクだ。連れ出したんなら、責任持って部屋まで送るのが筋ってもんだ。全くいいかげんな」 「ちがうの、ハクは-----」 ―――ハクは自分の部屋に誘おうとしてくれてたんだけど、、、、と言いかけて、それはそれでまた誤解を招くというか、別の意味で姉貴分の怒りの火に油を注ぎそうな気がして、千尋はあいまいに口をつぐむ。 そして、ぶりぶり怒る狐娘にひととおり謝ってから、尋ねた。 「ねえリンさん、さっきの人、誰だったっけ?」 「ああ? さっきのトカゲか? お前、紹介の時いなかったっけ?」 「・・・・とかげだったんだ。ええと、『オオト』さん?」 蜥蜴(とかげ)、と聞いて、千尋はなんとなく納得した。 そう言われれば、そういう風貌だった。 つい最近、調理場に新しく流れてきた男だという。 「でも、リンさん、人の顔のこと、あんなふうに言っちゃいけないよ」 「へっ!?」 「そりゃあ・・・わたしも怖い顔だとは思ったけど・・・痣(あざ)とか傷とかは仕方ないものだし」 狐娘はまじまじと妹分の顔を見つめた。 「お前、ほんっとに何も知らねぇんだな」 「?」 「あの顔の痣って、な」 「・・・・うん?」 それに続く内容は、若い娘には多少口にしにくいものだったので、さすがのリンも少し考えて言葉を選ぶ。 「その・・・トカゲの、『婚姻色』ってやつだよ」 「婚姻色?」 まだ察しのつかないらしい人の子に、リンは少々あきれつつ、教えてやる。 「要するにその・・・なんていうか・・・・、『発情色』って言えばわかるか?」 「・・・・・・・・えっ」 「つまりな、『そういう』時に、出る痣なわけ」 「・・・・・・・・・・・」 そこまで言われれば、さすがに鈍い人の子にも理解できる。 そういえば、一番最初に彼を見た時には、あんな痣はなかった。 千尋は嫌悪感に全身が鳥肌立つのを感じた。 「気ぃつけろよ」 「・・・うん」 うん、と答えたなり、気持ち悪そうに立ち尽くしている妹分がかわいそうになって、リンは話の矛先を変えた。 「龍だってトカゲだって似たようなもんだろが。ハクもあんな痣出すんじゃねーの?」 「・・・・・えっ」 「気色悪ぃだろーなぁ。なまじモトが小綺麗なだけに」 「ちょ、ちょっと待ってよ、、」 「あはははは。やだやだ想像したくねー」 「やっ、やめてよ、リンさんってば!!!」 ぎゃはぎゃはと大笑いしている狐娘に、大真面目に抗議しながら千尋はちらりと豚たちの柵を盗み見した。 豚たちはもう落ち着いていて、再び惰眠を貪っている。 「ん? どした、セン?」 「えっ、あ、なんでもない」 豚たちの中に混ざっている自分の両親を目で探し――――さきほど見分けることができなかった彼らを再び識別できるようになっていることを確認して、千尋はほっとした。 「おやじさんたち、だいぶ悪いのか?」 「・・・・・」 「薬代とか、大変だろ? ハクには相談したか?」 「・・・・・・・・」 「おい、セン?」 千尋はしばらく黙っていたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。 「あのね、リンさん」 「うん」 「神社の巫女さんとかって、恋とか結婚とか、しちゃいけないんでしょう?」 「へっ???」 唐突なその話題の変化に、リンは面食らう。 「そりゃそうだろうけど、なんだよ、突然」 「男の人に夢中になったりしたら、心がくもってしまって、真実が見えなくなったり、正しい声が聞こえなくなってしまったりするんでしょう?」 「知らねぇよ。巫女がどうのなんて、それこそ、『龍神サマ』にでも聞けよ?」 そうだね、と人間の娘は小さく笑った。 「わたしね。少し前までは、ちゃんとお父さんとお母さん、見分けられたの」 「・・・・うん????」 さらに飛躍した話題についてこれず、首をかしげる狐娘に気付かれないよう気をつけて。 千尋はそっとためいきをついた。 わたしね。
ちゃんとお父さんとお母さん、見分けられたの。 好きな人ができるまでは。 * * * * * *
※管理人注※ 今回ネタに使った「トカゲの婚姻色」ですが、実際には決して、上記のような気持ちの悪いものではありません〜〜 ニホントカゲなどでは体の側面にピンクっぽい綺麗なラインが出たりするようです。繁殖期に入った雄が雌をひきつけるためのおめかし?のようなものですから、不気味どころか、むしろ美しいものです^^ あ、もちろん、目当ての雌を見てにわかに発色するようなものでもないです〜(いつもながらでっちあげばっかりして、すみませんー!) |