鐘楼(しょうろう)流し (8) 





    ―――――困ったなぁ。どうしよう。




千尋は、自分の背丈と同じほどあるのではないかと思われる大きな風呂敷包みを背負ったまま、とある扉の前で立ち尽くしていた。



月に一度の休日は終わり、湯屋はまた、普段どおりの忙しい日課に従って回転しており。

人間の小湯女は今、その日の通常業務がひととおり終わったあと、数名の大湯女たちに言いつけられて彼女らの古くなった衣裳だの装飾品だのを物置部屋へ運びこみに来ているのだが。



そこは内側から鍵がかかっており、その中から、押し殺した熱っぽい息遣いが不規則に漏れ出ていて、千尋を悩ませていた。




    ―――――困っ・・・・




はああっ、と、抑えきれずに声になってしまったらしい女の荒い息に、千尋はびくんと固まった。



ここは湯屋の半地下にある細い通路。つきあたりには古びた扉。
扉の向こうは、小さな明かり取り窓ひとつあるっきりの湿っぽい部屋で、もとは持ち金の少ない客のための格安の宿泊室であったのだが、今は客間として使うことはなく、もっぱら当面必要のないものものを収納するために利用されている。


半分地下室ではあるが、一応畳敷きになっていて定期的に掃除もしているから、そう不潔な所でもない。
もとが客室であったため、内側から鍵もかけられる。
人の行き来も、あまりない。


とくれば当然――――本来の目的以外の用途に使用する不心得者が現れるもの。

ここはいつしか、わりない仲の男女たちの格好の逢引場所になっていた。
従業員たちはたいていそのことを知っているし、父役兄役たちもなんとなく黙認しているふしがある。


千尋とてそれを知らないわけではなく、また、こういう場面に出くわすのも初めてではないのだが、彼女はどうもこの手の状況を、うまくやりすごしたりかわしたりするのが苦手だった。



一度堰を切った女のあえぎ声は、もうとどめるすべがなくなってしまったらしく、濃密な湿気をまとったくぐもり声から、泣き声に近いあけすけな悦びの叫びへと変わっていた。
その動物的な息間に男の低いうめき声までが混ざりあい、扉一枚隔てた室内からじっとりにじみ出る重い澱(おり)のような熱気が、立ち尽くす人間の少女にまとわりつく。


千尋は重い荷物を背負ったなり、まるで自分が悪いことでもしているかのような気分のまま、動けずにいた。

聞き耳など立てたくもないが、物音を立てるのもはばかられる。
大湯女たちから言い付かった用事を済まさなければ、女部屋に戻るわけにもいかない。

では、このまま、中の二人がことを終えて出てくるまで、間抜け顔のままここで待っていなくてはならないのか。



ほとほと困り果てていると、後ろのほうから聞きなれた涼やかな声がした。



「どうしたの? そんな大荷物で」




    ―――――うわっ。





振り向くと、廊下のずっと向こうから近づいてくるハクの姿があった。

終業後という時間でもあり、周りに人目もないためか、彼の口調は仕事用のいつものそれよりずいぶん柔らかい。


店じまい後の見回りにでも来たのだろうが、なんともとんでもないタイミングでそこに現れた美面の帳場頭に、千尋はとっさにうまく返答できなかった。



「あああああの、お姐さま方に頼まれて、ええと、着物を片付けに、そのう、、、」

「うん? 鍵でも壊れてた?」



帳場を預かる彼は、湯屋内全室にあう合鍵をいつも持ち歩いている。

「どれ、見てあげ・・・・」


懐から鍵を取り出そうとした時、部屋内からひときわ高い嬌声が響き渡り、彼はぎょっとしてその足を止めた。




「・・・・・・・・。」




そういうわけか、と、扉の前で気まずげにもじもじしている少女を見やる。


物置部屋から漏れ出るあられもない声は、あたりを憚ることもなく一層激しくなり、ハクは、やれやれ困ったものだといわんばかりに眉間に手を当てた。




「あ、あの・・・」



中の二人が叱られでもするのではないかと心配になって、千尋はおずおずとハクの袖を引く。


ハクは少し考えてから、扉に向かって大きくごほん!とわざとらしい咳払いを一つしてみせた。



とたん、部屋の中はしぃんと水を打ったように静まり返り、あれほどまでにむんむんと充満し溢れていた熱気は、一気に氷点下まで凍りついた。



「行こう」


ほけっと呆けたように立ちんぼしている千尋の背から、ハクはひょいと荷物を取り上げて自分の肩に担ぐ。



「しばらく時間を潰してこよう」



うながして、すたすたと歩き始めた龍の青年の後を、千尋はあわてて追いかけた。






* * * * *





「お、怒るのかと思った」

「うん? さっきの二人のこと?」



紫陽花がこんもりと植え込まれた裏庭に、二人は並んで腰掛けて話す。
見上げると、なんとなく重い色の雲の間に、星がまばらにまたたいていた。



「踏み込んで厳罰に処するとでも、思った?」

「・・・・・・・ええと、、、、うん」


馬鹿正直な娘の答えに、龍の青年は声を立てて笑う。
そして、昔だったらそうしたかもしれない、とも思った。



「そこまで無粋なことはしないよ。あの部屋をあんなふうに使うのは感心しないけど」

「・・・・・・」


千尋はちょっと黙りこんだ。
以前仲間から、からかい半分に言われた言葉を思い出してしまったのだ。

彼女もあの地下物置室を『利用』しているくちだったが、「あんたはいいわよねーハクさま部屋持ちだもん、場所に不自由しないでしょ〜?」などと言って笑っていた。





「・・・ろ? 千尋、どうかした?」

「あ、ごめん、聞こえてなかった。何?」



怪訝な顔でこちらを覗き込む青年に、あわてて千尋は目を合わす。




「・・・・・。雨がきそうだよ、って言ったんだけど」

「えっ、大変、お姐さまたちの着物ぬらしちゃう」



風呂敷包みを抱え上げ、ばたばたと縁側へ引き上げようとしている背中ごしに、ためらいがちな龍神の声がかかった------ような気がして、千尋は振り返った。


「ハク? 何か言った?」

「・・・・・いや。濡れたら乾かしてあげるから、そんなに急がなくていいよ」

「そう?ありがと」


にっこり礼を言いながらも、千尋はてきぱきと荷物を片付ける。

その様子を、ハクは少し寂しげに眺めていた。








―――――雨が来そうだから、私の部屋に来ないか?








先ほど、本当はそう言いかけたのだ。

無論、下心はない。

自室にちょうど貰い物のよい茶葉があったし、処分しようとまとめておいた客の忘れ物の中に『向こう』の世界の雑誌があったから、気散じに良いかと思っただけだ。



が。



彼女は、いつからか・・・決して自分の部屋に入らなくなった。
仕事上の用事で物を届けに来る、などということはあるが、扉越しにそれを済ませるのが常で、中に上がりこむことはない。



湯屋に来たばかりのころは、しょっちゅう遊びに来ていたのに。
入り浸って、無防備に眠り込んでしまうことすら、あったのに。


年頃になった娘の慎み、だと思えばよい話だが、少々寂しいのは事実だった。


部屋に遊びに来なくなったからといって、別に嫌われているわけでは、ないと思う。
親しくはあると思うし、現に湯屋の面々からは恋仲同士だと思われている。

誤解といえば誤解だが、千尋がそれを迷惑がってもいない様子なので、あえてこちらからは否定せず、皆の言いたいように言わせている。

・・・・その方が、変な虫が寄り付かないから都合がいい――――と内心思っていたりもする自分を、情けないとは思うが。








大湯女にことづかった荷物を縁側に片したものの、それを今すぐあの地下室へ持っていってよいものか迷っているらしい千尋に、ハクは声をかけてやる。


「アオとウサメなら、たぶんもう身じまいして引き上げているのではないかな」

「えっ」


千尋はまじまじと龍の青年の顔を覗きこむ。


「だ、誰だったかわかるの?」

「ああ、うん」


目を丸くして、ハクって透視もできるの?と真顔で問いかけてくる少女に、龍神は笑って首を振る。


「あの程度の扉なら見抜けないこともないけど。あの場でそんな下世話な真似はしないよ」

「じゃあ、どうやって?」

「うーん。相手の気配、とでもいうかのな。一度会った者の放つ空気の色やにおいは覚えてしまうから」

「へぇえええええ」

「一応、二人にはあとで注意しておかないといけないな」



とたん、千尋の瞳がさっと曇った。


「あの・・・・アオさんたち、何か罰を受けるの?」

「まあ、そうなるね」

「わ、別れさせられちゃったり、とか・・・しないよね?」

「え?」




同僚のウサメとアオが付き合っていることは、千尋も知っていた。

ウサメは自分より年下の小湯女だが、几帳面で仕事はしっかりやっている。
アオもごく普通の若衆の一人で、決して素行の悪い男ではない。

どちらかといえばおとなしめで目立たない二人があの場の当事者だったのは千尋にとって少々意外ではあったものの、先ほどの件がきっかけで仲を裂かれるなどということがあったらどうしよう、自分があんなところに突っ立っていたばっかりに、と、千尋は申し訳なさに胸がつぶれる思いだった。



眉をハの字に寄せ、今にも泣き出しそうな目で見つめられて、ハクは苦笑した。


「そんなすがりつくような眼をしなくても。そこまではしないよ」

「ほんとに?」


まだ娘の瞳から思いつめた色は消えない。


「そうだね、湯屋内施設の不適切使用、ということで、当分厠の掃除でもさせなければいけないかな」

「厠掃除・・・それだけ?」

「色恋は別に処罰の対象ではないよ。契約を破って駆け落ちした、とかだったら話は別だけど」




そこまで聞いて、千尋はやっと安心したらしい。

よかった、と言いながら背中に負おうとした大きな風呂敷包みを、ハクは横からすいと取り上げた。


「手伝ってあげよう」

「え? いいよ、大丈夫」


あわてて首と両手を同時にぶんぶん振る少女が、唐わたりの首振り人形のように見えて、ハクはくすりと笑う。


「迷惑かな?」

「そんな」

「一人の部屋に帰ってもわびしいからもう少し一緒にいたい、と言ってるだけなんだけど」

「・・・・・・・・」




友情というには甘く、好意というには含みがありすぎ、恋慕というにはさりげない、―――つまり、どうとでもとれる言葉にちらりと本音を織り交ぜて。
拒絶されても傷つかない程度の、そして、受け入れられても舞い上がることないほどあいの微温を含ませた言葉を、さらりと口に。

こんなことが上手になっても仕方がないのにと自嘲しつつ、ハクは千尋の荷物を抱え上げ、先に立っておもむろに歩き出した。






「あの・・・・、ありがとう、・・・ハク」


背中から、遠慮がちな声がついてくる。



「礼など」



振り向かずに歩き続けながら、返事を。




すると、千尋がとととっと小走りに彼の前に出た。
両手を胸の前で祈るように組み合わせ、真剣な目で彼の顔を覗きこむ。


「違うの。お薬のことなの」

「うん?」



やっとハクが足を止め、見上げてくる少女に顔をむけると、彼女は懸命に視線を合わせてきた。



「ちゃんと言わないといけないと思ってたの。お父さんたちのお薬。お花までつけてくれて。ほんとにありがとう」

「・・・・ああ。落ち着かれたかい?」

「うん!」



よかったね、というと、千尋はぱあっと顔いっぱいに笑顔を浮かべた。


花が開くような笑顔というのはこういうのをいうのだろうな、と龍の青年は思った。
この手の中に大切に摘み取ることができればどれほど幸せだろうかと。


そして、ふと思いついて、言ってみた。




「明日から3日ほど買い付けで遠出するのだけど。何か土産に欲しいものはない?」

「え・・・」

「普段より大きな町に出るから。最近若い娘たちに評判の、ええと、何とかいう新しい店が」

「・・・・・・・」






とたんに、開いた花にさっと曇り色が差した。

言わなければよかったと、龍神は後悔した。が、勢いで続けて言ってしまう。




「櫛とか、鏡袋だとか、そうそう、近頃流行りの、爪を染める染料も置いていると女たちが話していたような」

「・・・・・・・」





墓穴だった。
花は完全にしおれてしまった。




「あの・・嬉しいけど、これ以上よくしてもらうわけには・・・・」






そうだった。彼女は贈り物のたぐいは、決して受け取らないのだった。
忘れていたわけではなかったが、さきほどの大輪の笑顔に、つい、このまま距離を一歩詰められるかのような錯覚をしてしまった。


うなだれたまま散り震える花に手を差し出すこともできず、龍の若者は押し黙ってしまう。


「ごめんなさい・・・」




ぽとり、と花が落ちる。
実を結ぶこともなく、そのほろ苦い残像だけを若者の胸奥に残して。


不用意に分不相応な領域に踏み込んでしまった気まずい敗北感を噛み締めながら、ハクはまた歩き出す。




うつむいて目の前を通過した龍の青年のあとに、無言で千尋も続く。
ハクを傷つけてしまったことが、悲しかった。












翌朝早く、ハクは旅支度を整え、一人出立した。
従業員たちは皆まだ眠りの中にいたが、千尋は一人女部屋を抜け出して。

青い空の中に吸い込まれていく白い龍の後姿を、柱の影からそっと見送った。











そしてその夜遅く。
家畜小屋から1頭の雌豚が引き出されていった。


屠殺場へと引き立てられてゆくその豚の首には
『拾三』の番号札が。








悠子、だった。














♪この壁紙はさまよりいただきました。♪