鐘楼(しょうろう)流し (9)
「オオト! この割り札、ほんまに間違いないやろな!?」 仕舞いどき近い調理場に、それこそ夏田の蛙を踏み潰したかのようなだみ声が響く。 厨房を仕切る、板長の牛蛙だ。 「へっ? なんかおかしいっすか?」 呼ばれて答えるのは厨房では新人の蜥蜴(とかげ)、洗い場から体の向きはそのままに長い首だけをぬっと上司の方へ伸ばして返事を。 「このあほんだら、何回言うたらわかんねん! 人と話するときは首だけちごて、ちゃんと真ぁ正面からこっち向かんかい!」 洗い物の手をとめ、濡れ泡を前垂れで拭きながら板長蛙の前にやってくる蜥蜴男。 牛蛙は、番号を書き記した朱塗りの木札をぶるぶると握り締め、それと蜥蜴男の顔とを交互に見比べながら、言った。 「ハク様はほんまに、『拾三』番の豚やて言うたんやな?」 「え? えーと、たぶん」 「たぶん、やとぉ?」 「はぁ」 なんとも要領の得ない返事に、板長はいらいらと手近な蛙に言いつける。 「おいお前、ちょっとハク様・・・は、出張やったな、リン呼んでこい。あ、豚の割り札も持ってこい言うんやぞ」 板長が握り締めている木札は、畜舎の豚を管理する番号札------正確に言うと、それを縦半分に切って割り札にしたものだ。 明日の宴会に、豚料理の予約が入っている。 豚を屠る時は、帳場頭であるハクから、その番号が調理場に指示される。 調理場に豚の屠殺の指示が届くと、厨房蛙の誰か―――たいていはそこに居合わせた中で一番下っ端の者に押し付けられるのだが―――が指示された豚を畜舎から屠殺場へつれてゆき、その番号札を帳場へ届ける。 帳場で番号札を確認した後、縦半分に切って割り札とし、片方を帳場で管理し、もう片方は調理場への連絡用として使う。 それが事実上の屠殺執行命令書というわけで、板場の責任者である牛蛙がそれを受け取って豚の処分にあたる、という仕組みになっているのだ。 板長の手元にある割り札に記されている文字は、『拾三』の左半分と読める。 ―――――センの母親やないか。 ありえない話ではないが、にわかには信じがたく、板長蛙はハクの留守中代理をつとめているリンに確認を取ろうとしたのである。 ほどなく、リンが調理場にやって来る。 彼女を調理場の外階段の踊り場に連れ出し、牛蛙が柄にもなく声をひそめて事の仔細を尋ねると、リンは目を丸くした。 「そんなばかな!? 違いますよっ! 『拾五』番、って聞いてます。ほら」 リンが差し出した割り札はたしかに『拾五』の右半分だった。 板長の持っている左半分と合わせてみると、ぴったり合う。 たまたま、板長の持っていた左方には『五』の文字の中央から右半分に含まれる漢字の縦線が入っていなかったために『三』に見えただけか。 ならば、屠殺場に現在つながれているのは、千尋の母親ではなく、別の豚ということになる。 「センの親だったら・・・やっぱハク様だって何か言ってから出かけていくだろうし・・・」 出張中の連絡や引継ぎの業務指示の中に、今回特に変わったものはなかった、とリンは言う。 が、どうも何か引っかかるものを感じて、牛蛙はしばらく二枚の割り札を打ち合わせたりこすったりしていた。 と。 「ん?? ちょい、リン、何やこれ」 「はあ?」 朱塗りの札に黒々とした墨書きされた文字の一部が、かすれている。 今、ごしごしとこすったためか。 二人は顔を見合わせる。 「板長さんすいません、ちょっと貸してください!」 リンが板長の手から割り札を引ったくり、水干の袖でさらにそれを何度も拭くと-----なんと、『五』の文字から縦線二本がつるりと消えて、『三』の文字が現れた。 「・・・・・これって・・・・」 「『拾三』、やな」 「じゃ、今屠殺場にいるのは---------!」 リンがわなわなと唇を震わせ何か言おうとしたのより一瞬早く、牛蛙の怒号が調理場中に響き渡っていた。 「オオト! こらどういうわけや! 説明せんかい!!」 厨房全体にわんわと大反響した牛蛙のだみ声に、居合わせた蛙たちは震え上がったが、当の蜥蜴(とかげ)は、怒りで顔を真っ赤にさせた彼の前にひょうひょうと現れた。 「説明って言われても別に・・・とと、あれっ?」 板長が突き出した割り札の『拾三』の文字を前に、蜥蜴は首をひねる。 そしてしばらく考えていたが、ああそうか、と、ぽんと手を打った。 「すいません! 札が汚れてて『拾五』と読み間違えたみたいで!」 「間違えたで済む思てんのか! 命かかっとるんや!」 「いやー悪かったっす。雌だって聞いてたもんで、てっきり」 畜舎はいくつもの柵で区切られており、その柵内ごとに飼育されている4、5頭の豚の番号札が柵にまとめてぶら下げられている。 が、蛙たちにとって、豚の個体区別など見た目ではほとんどつかない。 では、どうやって指示された番号の豚を探すのかというと、豚の耳の一部を切って出血させ、その血を番号札に垂らすのである。 番号と豚が一致する場合は、血はそのまま番号札に染み込んでいくが、一致しない場合は血は札の表面ではじかれる。 蜥蜴は間違えて『拾三』の札を使い、それに血の合った悠子をそのまま連れ出したというのだ。 「二度とこないな事、起こすんやないぞ。包丁にかけて誓えるな?」 「そりゃもう、決して」 「間違えて連れてった豚、畜舎にちゃんと戻しとけ」 「へい」 「耳、・・・手当しといたるんやぞ」 「へ?」 たかが豚になんでそこまで、という色をありありと顔に浮かべた新人に。 板場の長は、声を落として教えてやった。 「セン、いう小湯女知っとるか」 「はあ」 「あれのな。母親や」 「へぇっ? あ、ああ、なるほど、・・・・」 オオトは、ふんふんと頷き、裏口から出て行く。 「最近の若いモンは全く・・・」 蜥蜴のもうひとつ誠意の感じられない後姿にぶつぶつ文句を言いながら、牛蛙は調理場の表戸をがらり、と開けた。 と、そこには。 「い、板長さ・・・・」 宴会場から下げてきた山盛りの汚れ器を載せた盆を抱えたまま顔色を失い、涙でぼろぼろになって突っ立っている人間の小湯女が、いた。 「・・・・セン、・・・聞いとったんか、・・」 人間の子は盆を投げ出し、いきなりわああっと牛蛙にすがりついた。 「ああセン、よしよし、大丈夫やさかい、その、泣くな」 娘は懸命に礼を言おうとするのだが、しゃくりあげる息がそれについてこない。 ひっくひっくとのどが鳴るばかりで、その声が言葉にならない。 奥にいたリンも寄って来て、妹分の背中を撫でてやるが、まだ彼女の嗚咽はおさまらない。 「い、い、た、ちょ、さ、、、あり、あ、、、、、あ、、」 「可哀相になぁ。生きた心地せんかったやろ」 「ああありが、、、うう、ござ、、」 「わしは自分の仕事しただけや。別になんもしてへん」 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」 大柄な牛蛙と並ぶと、千尋は半分ちょっとほどの背丈しかない。 彼にしがみつくと、ちょうどまるまるとした太鼓腹の上あたりに自分の顔がくる。 そのばんと張り出した腹に顔を埋めて泣いていると、幼いころ、父明夫に同じようにしてもらった記憶がよみがえってきて、涙はさらにあふれてとまらなかった。 「ほらほら、いつまでも泣いとるんやない。宴会場の食器、あれで最後か?」 はい、とうなずいて、―――千尋はたった今自分が床にぶちまけた食器類を見て真っ青になった。 「す、すみません!!すぐ片付けます!!」 あわててそれらを始末しようとする千尋を、リンが遮(さえぎ)る。 「ああもう、ここはオレがやっといてやるから。今日はもう上がれ」 「でも、リンさん、」 「早くおふくろさんとこ行ってきな」 牛蛙も口を添える。 「ほらほら、『帳場頭代理』の許可出てるやないか。ちゃっちゃと行ってこい」 「は、はい! ほんとにありがとうございました!」 千尋は何度も何度も頭を下げ、そして家畜舎へと駆けていった。 * * * * *
畜舎に着くと、悠子はすでにもとどおりの柵に入れられて、眠っていた。 おざなりに手当された耳の傷が痛々しい。 千尋は懐に忍ばせてきた軟膏を取り出し、そっと傷に塗ってやった。 傷に触れても、もうたいして痛みはないらしく、豚は目も覚まさない。 千尋はほっとして豚の傍らに腰掛けた。 そして、その桃色の腹を撫でてやっていると、がさり、と足音がして目の前に誰かが立った。 「・・・・・オオトさん」 千尋が警戒心をあらわにして彼を睨むと、相手はひょうっと口笛を吹いた。 「そんな怖い顔するなって。話あるから顔貸せ」 「嫌です」 間髪入れぬ即答に、彼は肩をすくめる。 「さっきは悪かったって。ま、いいから来な?」 「嫌だって、言ってるでしょう!」 声を荒げる娘の前に、蜥蜴はぬうっと首を伸ばして顔を近づける。 そして生臭い息を吐きながら、耳元で囁いた。 「お前の大事な大事な、親の命に関わる話だぜ?」 「・・・・え?」 とたん、千尋は身を強張らせる。 「・・・・どういう意味ですか」 「ここじゃ話せねえな」 やむなく千尋は立ち上がる。 男にうながされ、その後について畜舎を出た。 人気ない夜の菜園のあぜ道をひたひた進み、花廻廊を抜けて湯屋の裏手へ。 そしてそこから勝手口にまわりこみ、一段下がった細い通路を降りてゆく。 そのつきあたりは例の地下物置部屋だった。 |