恋の音色・3  




「ハクや、一つ頼みがある。きいてくれるかえ?」
宴もたけなわになり、舞も楽も一通りが興された頃になって、遊亀は近くに控えたハクに問うてきた。
改まった言い方に、ハクは内心で嫌な予感を覚える。
こういう場合の直感とは皮肉なほど当たるもので、続く遊亀の言葉に、ハクの鼓動は段々と早くなっていった。
「湯殿へ向かう途中、桃色の水干を着た娘を見かけたよ。髪を高く一つに結い上げて、年の頃は14位だったかな。幼く見えたからもう少し若いかもしれない」
遊亀の言う娘が千尋であることは、確かめずとも間違いない。
念のためにと座敷から遠いところに引き離したというのに。
「その娘、ここへ呼んではくれまいか」
ハクの動揺を知ってか知らずか、遊亀はハクが一番避けて欲しいと思うことを言ってきた。
「ご所望とあらばすぐに参らせましょう。ですが、桃色の水干といいますと小湯女の一人かと思いますが、そういう娘は幾人かおりますので、どの者か判断いたしかねます」
ハクは動揺しつつも回りの良い頭を巡らせ、もっともな言い訳を口にした。
事実、小湯女となれば数え切れぬほどいるのだ。似たような髪型をしている者が複数いてもおかしくない。
ところが、ハクの言葉を聞いた遊亀は、声を立てて笑い出した。
「ハクよ、お前の言うことはもっともだけど、心はそれとは違うのではないかえ」
力ある竜神の遊亀とて、人の心が読めるわけではない。だが、ある一つの事柄については、非常に聡くもあった。
遊亀はハクの思惑を知っているわけではないが、この少年が仕事上の事柄ではない理由で娘を隠そうとしていることは察していた。そしてその理由とは並々ならぬものであるに違いない。この白面の少年を動揺させるほどに。
ハクはどう答えるべきか悩んだ。
この上客が害を為すと限ったわけではないのだから、千尋を隠すのは無意味なのかもしれない。
だが、それ思ってもなお、素直に答えるのはためらわれた。
「あのー、それ千のことじゃないですかぁ?ねぇ、ハク様」
ハクが答えかねているところへ、膳を下げに来た女中が口を挟んできた。
本人はちょいと助け船を出したつもりだろうが、ハクからしてみれば守っていた砦を中から崩されたようなものである。
客の前でなければ眉間に皺を寄せていただろう。
「ではお前、その千という娘を呼んできてくれぬか」
下々の者が勝手に口を出してきたことに側近達は咎めるような目を向けたが、遊亀自身はそのことには構わず、直接女中に命じた。
「さて、今日はもう舞はよい。他の者は皆下がるがよいよ。ハク、そなたもお下がり」
遊亀の一言で奏でられていた楽が止み、白拍子達は座敷を後にしていく。
それに続いてハクも下がるべきなのだが、この後のことを思うと素直に下がることなどできようも無い。
彼は人気の無くなっていく座敷に留まり、遊亀の前に進み出た。
「遊亀様、千を呼んでいかがなさるおつもりなのでしょうか。あの者は下働きの小湯女です。座敷での作法も知らぬ者、お客様のお相手がつとまるとは思えません」
「これハク、姫様に意見するつもりか」
ハクの物言いを乳母がたしなめたが、彼女を始めとする雪の側近達は、これまでにないハクの真剣な眼差しに少し驚いていた。
何事も涼しい顔をして受け答えてきたこの帳簿係が、なにやら訴えるような目で遊亀を見ているのだ。
その遊亀もまた、ハクの眼差しに微かな驚きを感じていた。静かな面持ちは崩さないものの、真っ直ぐ向けられる感情は平素とはまるで違う。瞳の色合いが変わったようにすら思える。
ハクがなにか言ってくるだろうことは予想していたが、ここまで強い意志を見せてくるとは思っていなかった。
遊亀は感嘆するように微笑んだ。
「心配かえ?」
なにがとは言わない。言わないが、ハクが千という娘を特別に思っているのは、もはや確かめるまでもない。
ハクはそれに対して言葉を返さなかったが、わずかに伏せられた瞳は肯定を意味していた。
「ならば約束しよう。けして傷つけたりはしないよ。ただ会って話がしてみたいだけだから」
彼女ほどの身分の神が約束と言うのならば、それは誓いである。
「…わかりました。差し出がましい事を申しました。ご容赦を」
遊亀にこうまで言われてしまっては、これ以上引き下がることはできない。もとより、気がかりではあるが、おそらくは杞憂で終わるだろうとハク自身わかっているのだ。
遊亀の様子を見るに、敵意はないし、彼女はわざわざ呼び立てて虐めるようなことをする神ではない。
しかし、ただ話すというのならばハクが同席していても構わないはずだ。せめてそれくらいは許してもらえないかとハクが問うと、遊亀はやんわりと首を振った。
「女同士の話がしたいのだよ。お前がいたのではあの娘の方が困るだろう」
遊亀は笑いながらそう言うと、軽く手を挙げた。その仕草を受けて、側近のほとんどが席を離れる。残るのは乳母と側仕えの女一人だけとなった。
「さぁ、お前はもうお行き」
まさに追いやられるといった状況に心中憮然としつつ、ハクは一礼して立ち上がった。
約束と言った遊亀の言葉に嘘があるとは思わないが、それでもまだ千尋の事が気にかかるのだ。
そんなハクの気持ちを読んだかのように遊亀が笑んだのを、背中を向けてしまったハクが気付くことはなかった。


♪この壁紙は薫風館さまよりいただきました♪



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