恋の音色・4 「涼しげな貌をしていても、あれも男に違いないようだね。少し意地が悪かったかな」 表情を乱すまいと苦心していたハクを見送って、遊亀は思っていた以上のハクの執心ぶりに楽しげな笑みを浮かべた。 主の機嫌良い顔を見て、乳母と女中が目を見合わせてそっと笑い合う。 やがて、襖の向こうから控えめな少女の声が聞こえてきた。 「失礼いたします。千です」 「お入り」 襖を開いて入ってきた千尋を、遊亀は先刻と同じように切れ長の瞳でじっと眺めた。 ただ、そこに鋭い光はない。千尋がどんな娘なのかを見極めているようだ。 一方千尋の方は、注がれる視線にわずかに戸惑う。良きにも悪きにも見つめられる訳が思い当たらないので、どう反応していいのかわからないのだ。 しかし、いつまでも突っ立っているのもかえって失礼かもしれない。千尋は広い座敷を歩き、遊亀の前で正座すると改めて一つ礼をした。 「お呼びだと聞きました。なにかご用でしょうか」 遊亀はふっと瞳の光を和らげた。 礼儀正しい千尋の様子を気に入ったらしい。まず声をかけようとした姥を指先で制して、遊亀自らが声をかけた。 「仕事の邪魔をして悪かったね。お前と少し話がしたかったのだよ」 「私と、ですか?」 予想していなかった答えに千尋はぱちくりと瞬きした。名高い神様がただの小湯女にそんなことを言ってくるとは思わなかったのである。 「そう、お前と。私のことは知っているかい?」 「はい、お名前は聞いています。池と河の主様だっていうことも」 「それでは、ハクと私が同じものだということもわかっているね」 ハクの名を出されて千尋はどきりとした。同じもの、という言葉に、またもや微かな胸の騒ぎを感じる。 「あの、竜だっていうことですか?」 遊亀はゆったりと頷いた。優美な仕草だが、楽しそうに笑っている顔は、千尋が先程廊下で見かけた時よりも幼く見える。 それでなくても、こうして間近で見る遊亀は思っていたよりもずっと若々しく、大池の主という感じがしない。 まるで同じ年頃の娘と話しているような雰囲気である。身分の高さは変わらず感じるのだが。 「幾年か前、この油屋であのハクを見かけたとき、すぐに同族とわかった。なにがあったかは知らぬが、拠り所を失って苦況にある様子、憐れに思い、せめて私の元に来ないかと持ちかけたが、目的のある身と断られたよ」 数年前というと、千尋と再会するよりも前のことだろう。 その頃のハクは力を得る為にこの油屋に身を置いていたのだ。 「だが、いくら信念があるといっても、名を失い心も欠けているのではいつ破滅してもおかしくない。来る度に声をかけて様子を見るようにしていたのだが…」 遊亀は一旦そこで言葉を切った。先程のハクを思い出して、ふふ、と小さく笑う。 「今日顔を見るに、すっかり様子が変わっていたよ。察するに、お前のおかげなのだろうね、千」 「え?」 いきなり自分に話が向いて、千尋は驚いた。 というより、ハクとの関係を言い当てられたようで、焦ったのである。 「ハクは語らぬが、お前があれを変えたのは言うまでもないよ。私はそういうことはよくわかるのだもの」 「あ、あの、ええと…」 赤くなって困る千尋を見て、遊亀はますます楽しそうに微笑んだ。 「私がハクを引き取ろうとしたことを聞いたら、お前が気にするかもしれないと思ってね。私はただ苦労している同族を気にかけただけなのだよ。どうか誤解しないでやっておくれね」 「あ、はい!もちろんです」 千尋はまた勢い良く頭を下げた。ハクの苦労を気遣ってくれたというのなら、千尋にとっても感謝したい話なのだ。 そう思うと共に、千尋の中でもやもやとしていた不安のようなものが消えていく。 なんとなく気がかりになっていたハクと遊亀の関係がはっきりしたからだろう。 「あの、でも…遊亀様」 「どうした?」 「その、どうしてわかったんですか?私とハクが、その…」 「恋仲だということが、かえ?」 千尋の顔がかぁ〜と音がしそうな勢いで赤くなる。 恋仲というとその通りなのだが、言葉にすると一層恥ずかしいものである。 「ハクがお前の話をしたわけではないよ。それどころか、私がここに呼びたいと言ったらそれは渋ってね。余程隠しておきたかったのだろうよ。まぁ、あれは好いた娘を見せびらかしたがるような男ではないからね。 ではどうして私がお前のことを知ったのかというと、他でもない、千、お前が教えてくれたのだよ」 「え?私が?」 「そう、お前のその、心の声がね」 言われて千尋は、思わず自分の胸に手を当てた。 もしかして、ずっとちりちりと鳴っていたあの胸騒ぎが関係しているのだろうか。 だとしたら…千尋の胸を別の不安がよぎった。 今になって、だんだんとあの胸騒ぎの正体が分かってきたのだ。 気付かれていたのなら恥ずかしいことだ。 「先程廊下を歩いていたとき、ふと鈴の音が聞こえた。正しくは鈴ではない。鈴のように高い音の、人の心の音だ。 私は人間の娘の心の音には敏感なのだよ。ことに、恋心からなるものにはね」 「心の音…」 遊亀は頷いて、思い出すような目をした。 「私がそれを聞くようになったのは、人の世で百年位前のことになるかな…。 今でこそこうして出歩きができるようになったが、私は昔は一つの地を離れられない身だった。私が動くと地に水が溢れるからと、天から戒められていたのだよ。 だけど、私の愛しい人は、離れた池に住まうお方だった」 先祖代々、近くは先代の父から受け継いだ、責任ある身分。それを嫌ったわけではなかったが、恋しい人と分かたれるのはどうしても耐え難かった。 募りに募った想いが堰を切ったある夜、遊亀は誓いを破って恋人の元へと行こうとした。乳母や側近達が身を楯にして止めようとするも構わず、命を捨てる覚悟で飛び立とうとしたのだ。 だがその時、荒ぶる神と化した遊亀を踏みとどまらせる者があった。 「ふいに、人の娘の歌声が聞こえてきたのだよ」 梺の村の娘だった。 留守にしている恋人の帰りを待ちわびて、寂しさを紛らわすために、人形を抱いて子守唄を唄っていたのだ。 「寂しさを耐えながら唄う娘の声があんまりに切ないものだから、私は我が儘を言うのをやめにしたよ。いずれ恋人の帰ってくる娘が妬ましかったが、羨ましかった。私が村を沈めたらその命もあるまいと思ってね」 娘の歌声は彼女の心の音色そのままの美しさで、同じように恋する身であった遊亀は、恋ゆえに寂しさを耐える娘の健気さを痛いほどに感じたのだ。 「それからだよ、私が恋する娘の心の音を聞き分けるようになったのは。 ハクの様子が変わったのを不思議に思っていた時、ふと千の奏でる音が聞こえてきた。ちりちりと、鈴のような音色が。 それに目を向けると、今度は背中のハクの気配が動いた。想う娘を見つけられて動揺したのだろうね、あの子にしては珍しく慌てていたよ。 それで、ああ、この娘とハクは想い合う仲なのだと合点がいったのだよ」 「あの、それって、廊下を歩いていたあの時ですよね…」 つまり、廊下で見上げていたあの時、千尋が無意識に発していた心の音を遊亀は聞いていたのである。 ここへきて自分の気持ちに気付き始めた千尋は、それを悟られていたことに赤面した。 今ならわかる。あれは、どちらかといえばはしたない部類に入る感情だったのだ。 「あの…私、あの時は気が付いてなかったけど、やきもち、妬いてたみたいなんです。 ごめんなさい!そんなの見当違いなのもいいとこなのに、ハクがお客様と一緒にいるなんて滅多にないことだし、遊亀様は綺麗な女の人だし…」 言いながら、千尋は段々といたたまれない気持ちになっていった。 そうだ、ずっと気が付いていなかったが、自分は嫉妬をしていたのだ。 あの不安に似た胸騒ぎは、自覚していないやきもちだったのに違いない。 それを察した遊亀がわざわざこうして説明のために呼んでくれたのだと理解した後では、申し訳ないやら恥ずかしいやらで、千尋は目の前がぐるぐる回りそうな気分になった。 どうしよう、まさに穴があったら入ってしまいたい気分だけど、この広い座敷ではどうにもならない。 素直すぎるほどの千尋の反応が可愛らしくて、遊亀は気にすることはないと言って優しげに笑んだ。 「私がこうしてわざわざ呼んだのは、お前の音色が澄んでいたからだよ。聞き苦しい悋気であったなら罰したかもしれないが、可愛らしいやきもちはむしろ好ましい。お前の心の音には汚れがない」 恋の音色といっても醜い嫉妬はやはり聞き苦しい。そういう音色であったのなら目もかけず捨て置いただろうが、千尋から聞こえてきたのはちりりと高い鈴のような旋律であった。 甲高く不安げだが、どこかいじらしい、無垢な心の奏でる音だ。 「今の世にもお前のような人間がいるのだね。…だが、千はなぜこの油屋にいるんだい?人間がいる所ではないだろうに」 神々の領域に人がいるのは、なにか不運なことがあって流れ着いた結果ということが多い。 紛れ込んでしまった人間にとって、この油屋は生きにくいだろう。遊亀はかつてハクを案じたように、千尋の身を気遣った。 そこで、千尋は自分がかつて迷い込んだこと、そして、再び自分の意志でここに来たということを遊亀に語った。 時折赤くなりながらも、ハクへの気持ちも含めて、千尋は今の生活が楽しいということを伝えたのである。 |