恋の音色・5 「あの、一つ聞いてもいいでしょうか?」 全てを話し終わった後、千尋は遊亀に問いかけた。自分の話をしながらも、さっきからずっと気になっていたことがあるのだ。 「いいよ、なんだい?」 「遊亀様は、今も大事な人と離れているんですか?」 恋人を想って寂しい音色を奏でる娘。それを語った遊亀自身は、今もなお愛しい人と離ればなれなのだろうか。 そうだとしたら、あまりに悲しい。千尋は顔を曇らせた。 すると、遊亀は今までにない嬉しそうな笑みを見せた。白い頬に、僅かに朱が差す。 「いいや、今は妻としてお側に」 それを聞いて、千尋はぱっと笑顔になった。 「本当ですか?ああ、よかった〜。おめでとうございます!」 まるで自分のことのように喜ぶ千尋を、遊亀は眩しそうに見つめた。 「ふふ、お前は本当に汚れない子だね。これほどの娘、ハクには勿体ないかもしれないねぇ、姥や」 無垢な人間の魂は、神々を癒す潤いとなる。 特にこの千尋は、素直で歪みがない分、心の美しさが真っ直ぐに伝わってくる。こうして語り合うだけでも、心地よい温かさが感じられ程だ。 この娘が傍らにいるのなら、ハクの顔色が良くなったのもうなずける。 「姫様、旦那様のいらっしゃる姫様は、もう羨ましがることなどございませんでしょうに」 「これ姥や、姫は止せと申したであろう」 今や一対となった遊亀は、姫君として扱われることを望んでいない。受け継いだ主としての身分は変わりないが、彼女がなによりも誇る名は、遊亀姫ではないのだ。 「ああ、申し訳ありません、奥様」 奥様という呼び名を聞いて、千尋はほんのりと暖かい気持ちになった。 きっとそれは、そう呼ばれた遊亀の幸福を喜ぶ気持ちと、少しの羨ましさから成る気持ちなのだろう。 思いの外長い時間語り合い、千尋が遊亀の座敷を出たのは就業時間終了の間際だった。 上客に呼ばれたので、今日の仕事は暗黙のうちに免除ということになっている。寝支度を始める授業員に混じって、千尋も女部屋へと戻っていった。 だが、なんだか周りの様子がおかしい。行き交う従業員のうち何人かが、ちらちらと千尋を気にしているような気がするのだ。悪い感じの視線ではないが、なんだか物言いたげな目で見ている者もいる。 「・・・どうしたんだろう?なんか変かなぁ」 服が破れているとかそういう理由かと自分の姿を見回してみるが、おかしなところは見あたらない。 わからないとなると、どうにも不安になってくる。いっそその辺の誰かに聞いてしまおうと、千尋は適当な相手をきょろきょろと探した。 すると、遠くの方からリンがこちらにやってくるではないか。 「あ、リンさん!」 「せ、千っ!お前、あの客に呼ばれたって!?」 会うなりすごい勢いで肩を掴んできたリンに、千尋は思わずたじろぐ。 質問しようと思っていたものが、言う間もなく、逆に問いかけられてしまった。 「え?ああ、遊亀様のこと?うん、呼ばれたよ。お話ししてきた」 「って、おい!なにかされなかったか!?なんか意地悪いこと言われたとかされたとか、そういうのなかったのかよ!」 「へ?意地悪って…そんなこと全然なかったよ、遊亀様、すごく優しかったもの」 千尋はきょとんとして首を傾げた。そりゃあいきなり呼ばれたときは不安だったけれど、実際に会った遊亀はとても良い神様だった。むしろ、親切にしてもらったくらいだ。 しかし、遊亀が千尋を呼びつけたという話は、事実とは別の認識で皆に広まっていたのである。 「だって、あのお客って…あれだろ、その…いつもハクを指名してるんだろ?それがよりによってお前を呼んだっていうから、てっきり…」 言いにくそうに言葉を濁すリンを見て、千尋はようやくなにかがおかしいと気が付いた。だが、色めいたことに馴染みの浅い千尋には、リンの言わんとすることまでは掴めなかった。 「てっきり、なんなの?リンさん?」 嫌味でも何でもなく素直に聞いてくる千尋に、リンはそれ以上言って良いものかどうかしばし悩む。 だが、純真な妹分のことを思うと、誤魔化すのも罪悪のような気がしてきた。 「だから、なんて言うか…ハクを贔屓にしてる客からしてみれば、お前の存在は面白くねぇだろ。なんつっても相手は女だし」 「面白くないって…」 言っている意味がすぐには理解できず、千尋はリンの言葉を頭の中で反芻した。 「だーかーら、嫉妬されてなんか言われたんじゃないかってことだよ!」 「ええ!どうして遊亀様が私に嫉妬するの!?遊亀様は旦那様がいるんだよ?」 「旦那がいたって気まぐれ起こす奴もいるだろうが!」 「ううん、遊亀様に限ってそんなことないよ!だって、ものすごい大恋愛だったらしいんだもん。馴れ初めから結婚するまで、全部お話聞いてきたんだよ」 始めは千尋の話を聞くだけだった遊亀だが、千尋に聞かれるうちに自身の恋の話を少しずつ語りだした。 恋する乙女の会話というのは長くなるものである。こんな時間になってしまったのも、半分以上は遊亀の話だったのである。 「へぇ、そうなんだ。…いや、俺だってハクの奴がお前以外とどうこうするとは思ってなかったけどさぁ、あいつ顔が良いもんだから言い寄ってくる客もいるらしいし、てっきり今回もそうかと…。でもさ、だったらなんで呼ばれたんだよ。まさか惚気話聞かせるためじゃないだろ」 「ええと、それは…」 どう説明すればいいものか、千尋は言葉に詰まった。 簡単に言ってしまえば、やきもちを妬いた千尋を遊亀が気遣ったということなのだが、それを話すのはなんとなく恥ずかしい。 「なんだよ、やっぱりなんかされたのか?正直に言えよ、俺誰にも言わないからさ」 「ううん!違うの、そうじゃなくて…うーんと…」 言うか言うまいか困った千尋の頭に、先程遊亀にかけられた言葉が浮かんできた。 『千や、お前は汚れが無さすぎるから、やきもちを妬いたことを恥じているようだね。 けれどね、そういう気持ちが悪いものだとは限らないのだよ。 だって、相手を想えばこその悋気だもの。恋人の特権というものだよ。 むしろ誇りに思ったっていいじゃないか』 今までの千尋なら、やきもちなんてものはただ悪い感情だと思ったことだろう。 だけど、実際に恋ゆえのそれを知ってしまうと、遊亀の言うことが少しだけ理解できるような気がした。 (やきもちを妬くのは、私がハクを好きだから) 遊亀のお陰で、千尋は初めて知ったこの気持ちをそれほど嫌だと思わずに受け入れることができた。誇りに思うというのは難しいけれど、むやみに落ち込んだりすることはないだろう。 「あのね、説明するとややこしいんだけど、聞いてくれる?」 まだ自分でも掴み切れていない恋心。その一端を、千尋は姉貴分のリンにだけ話す気になった。 ちょっと恥ずかしいのだけど、なんだか聞いて欲しい気分になったのだ。 だがしかし、一旦油屋内に広まってしまった間違った認識はその後も尾を引き、遊亀の来店の度に千尋は周囲に気を使われることとなる。 呼ばれる度に千尋が笑顔で遊亀の元へ行くので、その誤解もいつしか晴れるのだが、大元の原因と思われていたハクが油屋中からこっそり非難されていたのは言うまでもない。 名だたる竜神の遊亀姫は、恋する乙女は庇護するが、男の方はあまり助けてくれないらしい。 後の世にそんな謂われが残ったとか残らないとか。 耳を澄ませて 聞いてごらんよ かすかに かすかに こころの 奥底から 聞こえてくる これは 私の声 貴方を想う 恋の音色 |